東をどり

東をどり東をどり

幸か不幸か、未だ正式な料亭やお茶屋というものに行ったことはない。自分はいわゆる庶民の生まれ育ちであり、今も料亭やお茶屋とは縁のない暮らしをしている。日本の文化や伝統に関わる仕事をし、常日頃日本文化の素晴らしさに、繊細な技巧に感嘆しながらも、英国のブルーワーカーが貴族の世界を見ることがないように、雅な料亭やお茶屋の世界に、ある種の憧れを持ちながらも、やはりそうした特別な世界には、一般庶民は中々足を踏み入れることは出来ないのだ。

でも一方で、だからこそ、そうした世界は、決して世俗的にはならずに、玉のように磨かれて光り続けるのだとも思う。羨望はありつつも、やはり特別な世界は特別な人達に育まれていくべきなのだろうと思う。なぜなら、それは「生活」でないからだ。「日常」ではないのだ。それは芸術なのだ。非日常なのである。その素晴らしさは、そこにいる人々(芸者衆や男衆やそのほかの関わりのあるすべての人々)のたゆまぬ努力と鍛錬によって出来上がっていても、彼女ら彼らはそのような素振りは一切見せないのである。(料亭やお茶屋には行ったことはないけれども)その日、その瞬間にお迎えしているお客に最上のもてなしをし、最高のものを提供する。芸者衆はだからこそ美しい。艶やかな装いやツヤのある所作、仕草はもちろんだが、苦しみ悲しみを(当然人間だから苦労や大変さは想像以上の筈だが)一切見せずに、さりげなく「美」を見せる。「技」を見せる。

ようは本物なのだ。一つのことを常に考え、常に工夫し、常に精進するもののみが到達することのできる、至高の境地なのだ。

仕事柄、美しいものに触れる機会は多々あるし、「きれいな」人に出会う機会もあるが、見せかけの美しさではない、ただの形状としてのきれいさではない、本物の美しさには中々出会えるものではない。

血の滲むような苦労をし、苦しみや悲しみを通りすぎたもののみが発することの出来る光、そんな光を「東をどり」の舞台の人々は皆放っていた。

美しさは刹那に宿る。その刹那は連綿と繰り返されてきた無数の人々の血と涙の結晶の上にこそある究極の美だ。その空間にいられるひと時は無上の幸せなのである。

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第95回 東をどり 開催概要

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