東京今昔~古い写真で見る昔の東京~
公開日: 2008年5月23日 | 最終更新日 2022年10月20日
ビオトープと子供たち
土師 覚三
私が「ビオトープ」という言葉を聞いたのは、もう何年も前のことになる。其の時は情けないことにどんな意味なのか皆目解らず辞書を引いてやっと解った。何やら「生物生息空間」という意味らしかった。
そのビオトープが昨今、ビルの屋上や自宅の庭の一隅にそれをこしらえるのが流行りとの記載があった。
そう云えば先日、散歩がてらに近所の区民会館の周囲を歩いていたら、ご婦人が一人、何やら野良仕事のようなイデタチで、隣接する原っぱの片隅で作業をしているのを見かけた。いったい何をしているのだろうと好奇心に駆られ「何をなさっておいでですか?」と声をかけてみた。件の婦人が作業の手を休め「ビオトープの世話をしているんですよ」と薄っすら額に汗を浮かべて教えてくれた。見ると私なんぞには唯の水溜りにしか見えない地面がそこにあった。「ホー、これがビオトープという代物か」よくよく観察してみたら、確かに水溜りの周りに葦だか雑草だか解らない植物が植わっていた。話によるとこんな場所にトンボなんかが飛んできて卵を産みつけるらしい。
私の記憶の欠片の一片が甦ってきて、遠い昔の風景を思い出した。
私が小学校に入学したのは終戦直後、(勿論ヴェトナム戦争ではなくて太平洋戦争だが、)昭和二十一年のこと。私が入学した学校は東京の西部、杉並区にあり終戦直後の、物が何にもない荒廃した世相であった。当時の入学式の写真を見ると「革靴」を履いていたのはたった一人、あとは全員下駄という時代。そんな時代でもあったので、東京都内といえども当時の杉並はまだ開発されずに武蔵野の自然が結構残っていたように記憶している。
毎年冬になると、どういう訳か今の時代よりも大雪が降ったような記憶がある。未だに残っていた田畑が白一色の白銀の世界になった。そんな地域だったので、両岸から雑草が水面に覆いかぶさるように茂っている小川がサラサラと流れていて、冬は川辺の田畑で雪合戦、春夏秋は小川でのザリガニ取り、小鮒釣りが子供たちの楽しみであった。
その小川は妙正寺川といって、そんなには大きくない妙正寺の池から流れ出て、下流で神田川に合流する小川だった。そこが、今思い出すと当にビオトープだったのであろう。考えてみれば今に比べて、なんと楽しい遊びが出来たことだろう。水流もそんなには多くないが澄んだ水がゆっくりと流れる小川だった。授業が終わるとランドセルを放り出し、裸足で小川に入り岸辺の草むらが覆いかぶさっている辺りに、袖が濡れるのも構わず手を突っ込んで、指先をザリガニのハサミに挟まれ痛い思いをしたものだ。そんな出来事が昨日のように思い出される。その小川も昭和二十七、八年を境に田畑が宅地化され消えていった。自分自身も野原や小川で遊びまわるような年齢でもなくなって、数年もその様子さえ見に行かなくなっていた。
久方ぶりに訪れてみたら、両側を護岸され、すっかり様子が変わってしまっていた。あの「ビオトープ」も消え、一戸建ての家に囲まれてしまっていたのだ。朝鮮戦争の特需景気で日本の経済復興のドライブがかかった時期だったのであろう。仕方無かったのかも知れないが、何か自分たちの宝物が無くなってしまったように妙に悲しかった。
そして今、あまりに人工的になってしまった都内の自然をチョットでも取り戻そうとの思いからか、自宅の庭や公共の土地に「ビオトープ」を造って、ヤゴやトンボやゲンゴロウを呼び戻す試みがなされている。
昨今の少子化で、子供たちが少なくなったとはいえ、最近の子供たちは可哀そうだなとつくづく思う。あの夕日に照らされた川面の輝きを、川底にユラユラと動く緑の藻の動きを、そして勇壮なギンヤンマの飛翔する姿を、今の子供たちにも見せてやりたい。
自分自身の原風景ともいうべき自然を、もう一度見たいと思うならば最早近郊、それも結構遠くまで行かなくては見ることさえ出来ないなんて、かけがえのない大切なものをどこかに失くしてしまったような気がするのである。
著者プロフィール
- 名前:土師 覚三
- 1939年東京生まれ。大学卒業後百貨店勤務 営業企画、宣伝部門を経て社命によりアメリカ留学。帰国後新規事業立ち上げ定年迄勤務。退職後ビル管理会社経営。現在に至る。