馬籠宿

馬籠宿

木曽街道

家族連れ、老夫婦、学生、恋人同士、ツアーの団体、海外からの観光客。多くの人で賑わいごった返すこの山あいの宿場町も、夕方17時を過ぎる頃になると、人通りもまばらになり、日中の混雑が嘘のようにひっそりと静まり返る。石畳の街道に沿って、軒を連ねる観光客相手の土産物屋や食事処、甘味処も大抵が店じまい。中ほどにある島崎藤村の記念館も門扉を閉ざす。かつての「中山道」の宿場町は、現在にあってもなお、山間部の早い日暮れに合わせ、夜を迎える準備は都市部と比べて早いのである。

馬籠宿

往時の中山道馬籠宿付近を伝える。栄泉・「木曽街道六十九次・馬籠」

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清水の流れる宿場町

岐阜県中津川市にある「馬籠宿」は江戸日本橋を基点として山間部を通り草津宿で「東海道」と合流して京都まで達する「中山道」の43番目の宿場町。本州中部山岳地帯を行く中山道は、藤村をして「木曽路はすべて山の中」と言わしめるほどの山道で難所も多い。この馬籠宿もそんな木曽の山の中にある。妻籠方面から来ると山道に沿って全長およそ600メートルほどだろうか、下り斜面に町はある。急坂に宿場があるということが、いかにも中山道木曽路の険しさを伝えている。

中央道の中津川インターから車で20分ほど走ると「馬籠宿」と書かれた看板が見えてくる。国道19号を右折し、指示されるままに進んで行く。道は坂道となり、付近の家々を脇に見ながらどんどんと上ってゆく。旧中山道である。明治期にアップダウンの少ない木曽川沿いにバイパスとして国道19号が開かれ、また鉄道も敷かれたことによって、人と物の流れが大きく変わり、この旧中山道は一時期廃れた。しかしそれがゆえに、馬籠宿や7キロほど離れた場所にある妻籠宿は時代に忘れられるようにして、ひっそりとその美しい景観を残したのであった。さらに道を進んでゆくと、民家もなくなり、山道となる。舗装こそされているが、右に左に道はくねりながら坂道を上ってゆく。「この道であっているのだろうか・・・」一瞬そんな思いがよぎる頃、突如多くの人々で賑わっている場所に出る。そこが馬籠宿の入り口である。

駐車場に車を止めて、歩き始めるとすぐ目に付くのが道の端を流れる清水。かつての街道筋の宿場町として今も往時の姿で残る場所の多くで、現在も家が立ち並ぶ道の端に水が流れているが、ここ馬籠は道が傾斜していることもあって、その水の流れの勢いは早い。なおかつ水は澄んでいてとても綺麗なのである。その水は、鯉を育み、水車を回し、町の人々の生活を支える。そして、町の空気に文字通り「潤い」を与える大切な役目を持っている。

馬籠宿馬籠宿馬籠宿

道に敷き詰められた石畳は、急な坂道がゆえに雨水等で土砂が流出することを防ぐ目的を持つという。丁寧に敷き詰められた石畳が急峻な道を支えているのである。明治期まで往時の姿を留めていた馬籠宿だが、明治28年と大正4年の二度の火災によって石畳と枡形(後述)を残して町は焼失した。その後、復元され現在に至るのだが、この石畳だけが江戸の記憶を留めているというわけである。江戸の頃より現在まで、一体どれ程の数の人々がこの石畳の上を通ったことだろう。家や木々は変わっても、石畳はその身に数々の「思い」の重みを受けて、今日も静かに街道を守り続ける。

   
   
       
         

馬籠宿

江戸時代、川の流れにしばし足を止められ、旅程のくるう事の多かった東海道をきらい、中山道を行く旅人も多かった。船旅が無いために、良家の子女の輿入れに利用されることも多く、特に天皇家と外戚関係を作り基盤をより強固なものにしようとする徳川家に嫁ぐために京都から江戸に輿入れする皇族や公家の姫君はその殆どが中山道を通ったと言われ、別名「姫街道」とも呼ばれた。

必ずしも自ら望んで住み慣れた故郷を離れたわけではないであろう、運命に翻弄されざるを得なかったそんな彼女たちの行列も、この石畳の上を通っていったのだろうかと思えば、一つ二つ胸に去来するものがある。人の人生そのものが旅であるとはよく言われることだが、人生そのものが旅ならば、生きている間にする旅はさながら劇中劇のようなものか。今よりも遙かに、「旅」が過酷で「旅」らしかった時代に、きっと「心」の仕組みは今の我々とあまり変わることの無い「昔人」は何を思いながら、何十里の道のりを往来していたことだろう。

馬籠宿
「枡形」

枡形(ますがた)、というのは直角に曲げた道の事。城郭建築の際にも使われる様式で、道に角度をつけ石垣を組んで囲った部分をこう呼ぶ。賊などが押し入った際にそこに追い込み、先回りしていた援軍と挟み撃ちにするもので、外敵を防ぐために建築された。馬籠宿の道は、坂の下部分に枡形があり(平行している坂道は明治期に通行しやすくするために作られたもの。)、水車が回っている。急な坂道が鋭角に曲がっているため、視察に訪れた岩倉具視の乗った人力車が曲がりきれずに、民家に追突したというエピソードが残る。

馬籠で食べる

「ますや」

馬籠宿「ますや」の地鶏そば

昭和30年以前には二軒ほどしかなかったという馬籠の食事処。その後ブームが起きて数が増えたというが、ここ「ますや」は古くからやっているお店だ。店内には、民芸調の品々が並び、ほっとするような懐かしい雰囲気が漂う。囲炉裏がきってある席で待つこと10分ほどだろうか。美味しそうな湯気をくゆらせながら、蕎麦が運ばれてきた。「地鶏そば」・・・炒めてある地鶏のモモ肉と葱が素晴らしく芳ばしい。(注文後、厨房から賑やかな炒め音と芳ばしい香りが漂ってきた時に「炒め野菜とそば?脂っぽいのか・・・。失敗したかな」とよぎった思いは、スープを一口飲んで、一気に覆された。)炒めてあるとはいえ、決して脂っぽいこともなく、すっきりとしながらもコクがあって実に美味しいのだ。奥美濃古地鶏(おくみのこじどり)という地鶏を使っているという。全体の味付け、塩味と甘味と肉の脂のバランスがちょうどいい。香りも豊かで、ダシも素晴らしい。

馬籠宿

馬籠宿

過去と現在と未来

      

400年以上の歴史を持つ街道の、幾人とも知れぬ旅人が滞在し、そして行過ぎていった宿場町「馬籠宿」。夕日を浴びて石畳がオレンジ色に輝く。遠くの山々が落陽に染まってゆく。時には古きを思い、郷愁に浸ること、それもまんざら悪くはない。現在は過去と繋がっている。過去なくして現在は無い。繋がりを思うこと。時の流れを感じること。過去に思いを馳せること。歴史に学び、昔の人々の智慧に学び、知識を学ぶ。それは現在を確認し、未来を作っていくうえできっと欠かせない作業だろう。物質的、経済的な意味のみならず、本来の幸せの意義。人として本当に幸せな在り方。

歴史を大切にしない民族は滅びるという。単なる懐古趣味ではなく、本質的に、古い物を大切にするということ。時間を尊び、歴史を大事にする。その、或る意味至極当然なことをおざなりにしてしまうのならば、果たしてどうなってしまうのか。それは歴史が証明している。合理主義が全てではない。だれも作り物の太陽など必要とはしないのだ。

夕日に照らし出される美しい石畳の町並み。日は沈みゆき、又昇る。月日は流れ物事は変わりゆく。400年前にこの場所から見えた夕日はこんな色だったろうか。そして。400年後に、ここからどのような景色が見えるのだろう。この美しい石畳の坂道は同じようにオレンジ色に染まっているのだろうか。

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