奉納煙火

奉納煙火

花火

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火花の乱舞

轟音が耳を劈(つんざ)き
光の粒がきらきらと降り注ぐ
それは神々しいまでに輝き渡り
あたり一面を気まぐれに照らしながら

さらさらと降り注ぐ

後から後から
降り注ぐ

深海に次々と沈んでゆく夜光虫のように
吐き出された粒たちはひとしきり舞って
地面に吸い込まれてゆく

光と闇の融合
炎と人の饗宴

神聖なる眩光は空中でかちりと音を立てた

花火花火

残照

山の向こうに日が沈み、夕闇背後にせまる頃、人々は徐々に神社に集まってくる。奉納される煙火を見るためだ。

花火花火花火

さほど知られていないこの祭りは、大型バスで乗り付けるような観光客は殆どおらず、
地元及び近隣の町の人々で、その参加者と観覧者の多数を占めるこじんまりとした祭りである。

とはいえ、その勇猛さと激しさと美しさは一度目にしたら忘れられないもの。その記憶を頼りに、はるばる遠方より来た人もちらほら居ることだろう。

それでも、絶対数は知れていて、今の時代にあってもなお、昔の雰囲気を強く伝えるような、質素でぬくもりを感じる時間、素朴であたたかみのある空間がそこには残っている。

花火花火花火花火

両側に屋台の立ち並んだ参道に足を踏み入れると、地元の人々が次から次に声をかけてくれる。おにぎりやおつまみ、そしてお酒を振舞ってくれるのだ。その温かさの嬉しいこと。そしてお酒の美味しいこと。自然と顔が綻んでいく。頂いた握り飯をほお張りながら、屋台をひやかしつつ境内に向って歩いていく。佇む人やすれ違う人々はみな笑顔である。

さて、境内に入るとまず神社の手前側に組まれたやぐらが目に入ってくる。そこには何本もの筒花火が設置され、正面の足場に向って数本の線が交差して延びている。そのやぐらから距離にして縦40メートル横50メートルほどであろうか、周囲にロープが張り巡らされ、それより中へは入れないようになっている。そう、その中は祭りの「参加者」の為の空間なのだ。地元の消防団や警察が決して物々しさを感じさせること無く、要所要所を守っている。

花火

綺羅星の雨

周囲に大声が響いた後、伝令が境内を全速力で駆け抜け、程なくして威勢のいい掛け声とともに100人ばかりの集団がその場へ駆け込んできた。しばしの暗転後、突如ひゅーと甲高い音を立てて水平に花火が飛び、それによって点火された花火が、ばちばちばちと音を立てて燃え上がった。仕掛けは次から次へと、あらかじめ設置されてあった花火に火をつけ、その筒口からは勢いよく火花が飛び出してくる。

「シュー」という音とともに見る間に花火は勢いを増し、周囲を取り囲む人々の頭上へ迫り来る。

まるで、筒に閉じ込められていた光の妖精が何百万、次から次へと飛び出てくるようだ。閉じ込められていたもどかしさとストレスを晴らすかのように、
人々の上に襲いかかってくる。

それは凄惨な美しさ
荘厳なる綺羅星の雨

次から次へと爆音が鳴り響き
辺りは透明な混沌に包まれてゆく
あまりの光景にただ息を呑み
立ち尽くすしか
なす術(すべ)はない。

他人でいられるうちは。

そう、見た目の美しさとは裏腹に、光の雨は鋭いナイフのように皮膚を焼く。ひとたび自身の上に舞い来れば、触れた肌には鋭い痛みがちりりと走り、硝煙とタンパク質の焼けた匂いが鼻を突く。

花火花火

見上げると杉の木に降りかかった火の粉が、パチパチと音を立ている。

暗闇の中にすっと伸びた枝の一部が燃えているのである。

花火花火花火

それには全くと言っていいほど目もくれず、火花の熱さも意に介さず、眩いばかりの閃光と後から後から降りてくる灼熱の雨の中を、人々は駆け回るのだ。
雨粒一つ肌に触れただけで、火傷しそうな熱さだというのに、驟雨の中を勇壮にも駆け回るのだ。

それは狂気ではない。神への奉納という神聖なる行為だ。祈願と感謝と強い意志の心で、降りかかる火の粉の下に自ら飛び込んでいくのである。
人々は一心不乱にその中を走り抜ける。

形を変え場所を変えながらも、これが戦国時代から行われてきた奉納煙火なのだ。

花火花火花火

「花火」

その圧倒的な破壊力と美しさ、そして光が消え去った後の儚さ。静と動、美と破壊の同居。
華麗な色や音で人々を楽しませる一方で、同時にその力が少し別の方向にむいただけで、一瞬にして人の生命さえも奪い去る。

無論、食べ物も薬も、量や処方を間違えれば簡単に毒と化すわけだが、火薬ほどその相反する性質を有無を言わさぬ力強さでもって我々に提示するものも、さほど多くは無いのではなかろうか?

いや、むしろ底に流れる破壊の力のその絶大さこそが、ときに人の人生の儚さを示すものとして、ある美しさをともなって人々を魅了するのではないかと思うのだ。

それこそが「瞬間の芸術」とよばれる所以であり、その「瞬間」にこそ、人の生き死にの刹那を垣間見ることが出来る。

それを体現したもの、それが「花火」である、そんな気がするのだ。

少なくとも、そんな想いを少しだけ加味しながら、花火の一発一発、一瞬一瞬を楽しむように、愛でるように、慈しむように、畏怖するように、体感するように見てみると、また違った見方が出来るのも確かだ。死を感じることは、逆説的に生をリアルに感知することに他ならない。この混沌とした世の中、正も負も入り乱れ、右も左も斜めも縦も基準が狂いっぱなしの現代に、一際明るく道を示し、「命」に気がつかせてくれるものの一つ、それが「花火」であるような気がしてならないのだ。「瞬間」の連続が「永遠」なのだと。

火傷をものともせずに、火の粉が降りかかる中を走る勇敢な人々を見て思う。火花の一瞬の煌めき、その風雅で凶暴な美しさと、生命が持っている或る瞬間の美しさはとてもよく似ていると。内包する力をその本人でさえ御しきれずに、それはきらめきながら表に飛び出てゆく。時に、名刀の美しさと切れ味でもって。

命は美しく、そして儚くもある。時に残酷でありながら、やはり、どうしようもなく美しい。

花火花火花火花火

火花の余韻~

興奮冷めやらぬ中、参道を下っていくと、先ほどまで火の雨の中を走り回っていた人々に出迎えられた。両側に並んだ彼らは口々に「ありがとうございました。」と声をかけてくれる。御礼を述べたいのはむしろこちらの方だと言うのに、火の粉を浴びて背中や肩が水ぶくれになって痛いであろうに、爽やかな笑顔と元気な声で口々に、御礼を言ってくれるのである。その清々しさにまた感動し、最大の賛辞を込めた拍手を送りながら参道を抜けて道を下った。こんなにも勇壮で、激しくて、力強くて、同時に優しく温かい祭りがあるだろうか。そんな思いが頭をよぎる。

余韻に浸りつつ、夜道をゆっくり歩いていく。
手の甲に僅かに残るやけどの熱さを感じながら。

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