桑名 七里の渡跡

七里の渡跡

現代の私たちは、普段特に苦労もせず、車や電車でいつのまにか川を越えていることもあって、渡河の大変さを思うことなど殆どないが、改めて考えてみれば、そこに川があって橋がなければ、川を渡ることはどれだけ大変なことだろう。

江戸時代以前、各地の川には橋が架かっていた川ももちろん数多くあったが、一方で、例えば「暴れ川」と呼ばれたような利根川や、筑後川、吉野川、信濃川、常願寺川、天竜川、木曽川、長良川、揖斐川などの川では、多くの人出と費用を掛けて橋を架けても雪解け水や台風などで流されてしまう事も多く、また地形的な理由、特に河口付近ではその広大な川幅の為に、技術的問題もあり橋を架けられなかったケースも多かった。大井川や安倍川のように防衛上、軍事上の理由で架橋されなかった川もある。

それらの川で、人々の往来に欠かせなかったのが、人足による川越しや、通称「渡(渡し・わたし)」と呼ばれた、いわゆる渡し舟(渡し船・渡船)だ。「渡し」には、人間が数人から20人ほど乗る小舟、馬も乗ることができた馬船、荷物を多く積み込むことの出来た平船、さらに大きな帆船などがあり、日に何度も行き来しては、人や物資を運んでいた。

そんな「渡し」の一つ、「七里の渡し」は、東海道の宮宿(現在の愛知県名古屋市熱田区)から桑名宿(現・三重県桑名市)までの海上を約4時間ほどで結んでいた渡し船。現在は埋め立てられて陸地となっているが、この七里の渡しは、全長約500キロメートルにも及ぶ東海道の中でも唯一の海上をゆくルートであり、大井川と並ぶ東海道の難所の一つとして知られていた。佐屋路(佐屋街道)と呼ばれた脇往還の迂回ルートもあり、天候次第では足止めされることも多かった「七里の渡し」を敬遠して、この脇往還を行く人々も多かったが、佐屋路は宿場の規模も小さく北に大回りしなければならないこともあって時間がかかったので、船に弱い女性・子供などを除き、多くの人は「七里の渡し」を利用していたという。

東海道五十三次 桑名
歌川広重の描いた東海道五十三次「桑名宿」にも、幾艘もの帆船が描かれている。

大井川の両岸にあった島田宿、金谷宿は、大井川が増水により川留め(渡河禁止)となると、川明けまで数多くの人が足留めされたために、その結果大いに賑わったというが、それと同様、七里の渡しの宮宿、桑名宿は、船の順番を待つ人、天候の回復を待つ人などで大変なにぎわいを見せ、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒を擁し、家数2,544軒、人口8,848人(江戸末期)の桑名宿、そして天保14年には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋248軒、家数2,924軒、人口10,342人を数えたという宮宿と、東海道でも1、2位の規模を誇る宿場町であったという。

今日の一枚は、「七里の渡し」の桑名側の現在。先述のように、七里の渡しのルートは埋め立てにより陸地となり、東海道も含めて往時の面影はほとんど残っていないが、ここには松の木と鳥居、石灯籠があり、かつての雰囲気を少し窺い知ることができる。この場所は、伊勢国の東の玄関口として位置付けられており、松の木の向こうに立つ鳥居は「伊勢国 一の鳥居」とよばれるもの。式年遷宮ごとに伊勢神宮・宇治橋の鳥居を運んできて建て替えられている鳥居だ。

この場所に立つと、当時の旅人達、特に江戸から、箱根を越え、大井川を渡り、遠路遥々やってきて、ようやく伊勢国に到着し、安堵と期待に胸を膨らませたであろう「お伊勢参り」の旅人達に、想いを馳せることができる。今よりも不便で、情報も少なく、危険も多かった時代だからこそ、その嬉しさ、喜び、感激、感動は大きかったに違いない。

圧倒的な便利さ、速さ、そして怒涛の情報量と引き換えに、私達は、そんな全身を包み込むような感情を失ってしまったのではないだろうか。

撮影場所

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