美しい日本の風景 吉野の夕暮れ
公開日: 2011年11月27日 | 最終更新日 2023年12月21日
奥吉野にて
その日は、雨が降ったり止んだりを繰り返すはっきりとしない天気の日だった。見上げると空には厚く雲が立ちこめ、全天を灰色に塗り上げている。それでも時折雲が割れ、光が数条差し込んだりもしていたが、いつしかそれもなくなり、気がつくと世界は鈍色に染まっていた。まるで彩度を全部落としてしまったかのように、全ての色は鮮やかさを失っていた。心もそれにあわせて、触れ幅の増減を失っていく。悲しいとか淋しいのとはまた違う、感情自体のレベルが弱まっていくようなそんな感じだ。何を見ても、冷徹なまでにその形状の情報しか入ってこない。それはただ、そこにある。これはただ、ここに存在している。そこに意味はなく、複雑な感情もない。体はただ与えられた司令を淡々とこなしていくだけだ。
あちらを訪れ、そちらを巡り、進み続けること数時間。
ようやくその場所に近づいた頃には、16時を大きく回っていた。両側に木々が鬱蒼と茂る山道。いよいよ緑は深くなり、いよいよ山は存在感を増してゆく。光は少しずつ姿を消し、闇がそこかしこに息を潜めている。
「ピィイー」突然、静寂を破るように遠くで何かが鳴く声がした。肌にぴりりと仄かな緊張感が走る。
歩を進めるにつれ、自己の存在は薄れ、自我が少しずつ消えていく。山全体が「生命」のうねりとなって迫ってくる。徐々に徐々に、何かの中に溶け込んでいくような、ゆっくりと何かに飲み込まれるような茫漠とした気分だ。
山道がカーブしたその先に、バスが一台転回できるような空間が広がり、鳥居が立っていた。その先に神社の参道が続いている。両側の木は無残に切り払われ、殺伐とした虚無が辺りを包み込んでいる。音のない夢の中に迷い込んでしまったような感じだ。
参道の入口でしばし息を整えてから、鳥居をくぐり、ゆっくりと参道を登り始める。参道の左側には所在無げに電柱が並んでいる。道の両側はそれぞれ一メートルほどのコンクリートの壁で、その上に山があり、幾本もの途中から切り落とされた木々が並んでいる。そんな坂道を300メートル程だろうか、てくてくと登ると、次第に両側のコンクリートの壁が低くなってきた。目指す神社の拝殿はもう少しのはずだが、ふと思い立って右側の斜面を少し登ってみる。一歩、二歩、三歩。
その瞬間、世界は一変した。
山道に入ってからの長い時間、生い茂る木々に遮られていた視界が一気に開け、開放的な空間が目の前には広がっていた。シルエットになった山並みが幾重にも続いている。山並みのむこうにはぽつりぽつりと民家の明かりが白い点のようにまたたいている。折り重なるように連なって、天を覆っている分厚い雲の隙間からは神々しい光が漏れ、部分部分を照らしていた。右手に見える山並みも天との境目が濃い橙色に輝いている。
なんという光景だろう。なんという景色だろう。
暗い道を歩き続け、急な坂を登り続け、このまま世界は闇に閉ざされてしまうと思っていた。いつたどり着くやも知れぬ彼の地に行き着く前に、光を失ってしまうと思っていた。
しかし、光はあった。美しさはあった。覆いかぶさるように茂る木々のむこうに、荒涼と立ちふさがるコンクリートの壁と切り株の山のむこうに、光は広がっていた。美しき世界は広がっていた。それは、ほんの残光かもしれなくとも、細胞に活力を与えるには十分すぎるほどの光だ。ほんの刹那の光景かもしれなくとも、心に染み入るには十分な時間だ。
昔の人々は、こんな風景を見て大いなる存在を感じたのかもしれない、とふと思う。それはきっと、宗教でもなく、イデオロギーでもなく、もっと手前の、もっと漠然とした何か。自分たちを取り巻くもの。自分たちが生きているもの。生かされているもの。インターネットはおろか、テレビもラジオも無い時代、「それ」はもっと身近な存在だったに違いない。
「生」があり、「死」があり、出会いがあり、別れがある。悩みがあり、苦しみがあり、喜びがあり、悲しみがある。常日頃、大いなる存在だと信じて疑わない「自己」は「或る瞬間」にちっぽけな存在となり、自分の力ではどうにもならないものが、厳然たるリアリティを持って目の前に突き出される。その時、人は何を思うのか。
ビルに囲まれ、コンピューターと共に生きる普段の自分の姿が、生い茂る木々の中を光を知らずに黙々と歩き続ける先程の自分の姿に重なっていく。
光はないのではなく、気づかないだけなのか。それとも、どうにもならない流れの前には、人は立ち尽くすことしか出来ないのか。
「実の兄」が差し向けた追っ手に追われながら、この地を逃げ延びていったという義経の姿が脳裏をかすめた。愛する静と別れ、山の中を歩きながら義経は一体何を思っただろう。彼に光は見えたのか。それとも、すぐそこにあったかもしれない光には、ついぞ気づくことはなかったのか。
冬の気配が風に舞う。
吉野の山は、静かに在った。渦巻く人の思いはよそに。ただただ静かに、そこに在った。
美しい日本の風景 吉野 夕暮れ
+-で地図を拡大縮小