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桑名城跡

海道の名城「桑名城」

徳川家康が江戸幕府を開府する以前から側近として家康を支え、徳川政権の樹立に大きな功績があった四武将「徳川四天王」の一人であり「徳川三傑」「徳川十六神将」の一人にも数えられた本多忠勝。家康が今川義元に命じられて実行した「大高城の兵糧入れ」を初陣として、「上ノ郷城攻め」や「牛久保城攻め」、「姉川の戦い」、「長篠の戦い」、「小牧・長久手の戦い」、「関ヶ原の戦い」など、実に57回におよんだともいわれる数々の戦で功績をあげ、天下無双の勇猛果敢な猛将として名をはせました。

関ケ原の戦いの後、1601年に忠勝は伊勢国桑名藩(現在の三重県桑名市)を与えられましたが、その際に整備し、修繕改築をしたのが、揖斐川沿いの水城として知られた「桑名城」です。数々の戦で戦功を上げた勇将として知られた忠勝でしたが、藩主としての手腕も優れていたようで、川の流れを変えて外堀として利用、町中の家や蔵を一度取り壊して大規模に町を整備した「慶長の町割」を行うなど、城づくりのみならず街づくりにも注力した様子が、桑名の町の酒屋の主・太田吉清が1599年から1615年までの桑名の事柄を書いた「慶長自記」に詳しく残されています。

桑名城があった場所には戦国時代頃には一帯を支配していた伊藤武左衛門の「東城」と呼ばれる城がありました。戦国時代の末期には、織田信長の家臣である滝川一益が、さらに豊臣秀吉の時代に一柳右近、氏家行広が治めています。

1595年頃には伊勢神戸城(いせかんべじょう)の天守閣を移築し、初めて天守が作られたといわれます。(この旧天守は忠勝が入封後に桑名城の「神戸櫓」として残されています。)

そうして、1601年、関ケ原の戦いで戦績をあげた忠勝がこの地に入り、本格的な近世城郭を整備しました。

東海道の要衝でありかつ「七里の渡し」もあった水際という立地において、四重六層の壮麗な天守のほか51もの櫓を備えた城が完成、後に「海道の名城」とも称されるほどの質実共に立派な城となりました。城から船で揖斐川に出入りすることもできたと伝えられています。

1701年には桑名の町を焼く大火の影響で天守を焼失、以降天守は再建されませんでしたが、幕末まで桑名藩の中心としての役割を担っています。天守は再建されなかったものの、城の規模としては大きく、1803年には門は63か所、櫓は95か所もあったと記録に残っています。

幕末の戊辰戦争後、桑名藩は旧幕府軍側であったために城は破却となりました。

現在は「桑名城址九華公園」として市民の憩いの場所になっています。

蟠龍櫓


城跡に鎮座する鎮国守国神社


桑名城の石垣

桑名城の詳細データ

地図

Japan Web Magazine 編集部

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