御厨人窟と神明窟
公開日: 2015年9月29日 | 最終更新日 2022年10月19日
弘法大師の修行の地としての伝説の残る海蝕洞(洞窟)
真言宗の開祖として知られる弘法大師・空海は、774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で生まれた。14歳の時に平城京に上り、論語、孝経、史伝などを学び、さらに792年(延暦11年)に京の大学寮(律令制下で作られた式部省直轄の官僚育成機関)に入り、左伝(春秋左氏伝)、毛詩、尚書(書経)などを学んでいる。793年(延暦12年)、大学寮での勉学に物足りなさを感じた空海は、山に入って修行を行うようになった。吉野の金峰山や伊予の石鎚山、阿波の大瀧岳、室戸岬などで修行を重ねたと伝えられる。
そんな空海が、長年の修行の末に悟りを開いた場所ともいわれ、「空海」の名前の由来にもなった逸話が残るのが御厨人窟(みくろど・みくりやどうくつ)だ。
高知市街から車で約2時間、徳島市街からなら車で約2時間半、太平洋に鋭く突き出した室戸岬に御厨人窟はある。その右隣には、御厨人窟に居住した空海が難行を行ったとされる神明窟(しんめいくつ)が並ぶ。この二つの洞窟は、太平洋の波浪の浸食により崖(海食崖)が削られて出来た海蝕洞(海食洞)で、御厨人窟には五所神社が、神明窟には神明宮があり、それぞれ祭神として大国主命、大日孁貴(天照大神)が祀られている。
青年期の空海についての資料は少なく、この御厨人窟に空海が何歳からどれくらい滞在していたのか正確なことはわかっていないが、空海はこの御厨人窟と神明窟で修行を重ねた。周辺一帯は地震などの影響でこの1000年間に5メートルほど隆起した為、現在は海から少し離れているが、空海が修行していた当時は、すぐそばまで波が迫っていたとされる。大海原に向かってそそり立つ崖の洞窟という荒々しい環境で難行を重ねていた空海は、虚空蔵求聞持法の修行をしていたある時、口の中に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込むという体験をする。この時、空海は悟りを開いたといい、御厨人窟からは、ただ空と海が見えたので、その後、法名として「空海」を名乗ったと伝えられている。
この逸話の真偽や、空海がここで修行をしていた時期や期間は定かではないものの、洞窟とそれを包み込む雰囲気はやはり一種独特のものだ。空海の情報が頭の中にあるから余計に「そう」感じるのかもしれないが、洞窟の外側に立つだけで、一帯に漲っている緊張感やパワーのようなものを肌で感じる。
さらに洞窟の中に足を踏み入れると、普段の生活の中では決して感じることのない、自然との一体感、もしくは大自然の中に溶け込みまぎれていく自身の矮小さを感じるのだ。自我で凝り固まり、エゴが身体のそこかしこから滲み出ているような日頃の自分が、なんとなく恥ずかしく、また愚かであることを感じさせられる。肩ひじ張って何かに対抗し、見えない何かを打ち負かそうとしている自分がつくづく蒙昧であることにふと気づかされるのだ。
そんな時、何気なく振り返って洞窟の外に見える風景。そこには光があった。洞窟の中にはない明るさがあった。その明るさは単に照度の高低で表されるものではない。心に入ってくるような明るさだ。そこから見える風景は、1200年前のそれのように「空と海だけ」というわけにはいかないが、それでも、闇に囲まれた中から見える、眩いばかりの外の明るい世界は、何かを考えさせられ、何かに気が付かされるのに十分な輝きと鮮やかさを持っていたのである。