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岩崎彌太郎生家(岩崎弥太郎生家) 日本を動かした男の生家

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三菱UFJ銀行、三菱商事、三菱重工業の「御三家」をはじめ、三菱地所、三菱自動車、三菱製鋼、三菱製紙などの「三菱」を冠する企業はもちろん、日本郵船、キリン、ニコン、AGC、明治安田生命保険、エネオスそしてもっとも身近なところでいうとコンビニのローソンまで、関連企業も含めると日々の暮らしの中でそのサービスや製品のお世話になっていない人は一人としていないであろう、私たちの生活と常にどこかで密接にかかわっている日本の巨大企業グループ「三菱グループ」。

前身である「三菱財閥」は、戦後にGHQの命令で他の財閥と共に解体が行われたことは歴史で学んだとおりですが、明治から昭和にかけて運輸業(海運、鉄道)、造船業、鉄鋼業、重工業、商業、製造業、銀行業など、多岐にわたる分野で日本を動かしていました。戦後解体はされましたがその後分野ごとに統合が進められて「三菱グループ」に。今も様々なサービスや製品で私たちの暮らしを豊かにしてくれています。

その「三菱財閥」の基礎を作り上げた「岩崎彌太郎(岩崎弥太郎)」の生家が高知県の安芸市にある岩崎彌太郎生家(岩崎弥太郎生家)です。

1835年に土佐国安芸郡(現在の高知県安芸市)で下級武士の子供として生まれた岩崎彌太郎は、幼少期の頃は貧しい生活を送ったと伝えられています。しかし、儒学や漢学などの学問に精を出し、さらに持ち前の行動力と負けず嫌いの気性などで自らの運命を切り開いていきます。

24歳の時に藩に取り立てられ、半年間の長崎出張を経験。この時にイギリス人やオランダ人とも交流を持ち海外の文化に肌で触れています。32歳で土佐藩開成館長崎商会の主任に就任し、欧米の商人との貿易交渉を担当。1870年に土佐藩の藩船3隻を借り受け、九十九商会を設立し、これが三菱の創業となりました。その後、三川商会、三菱商会、郵便汽船三菱会社と社名を変えながら、国内外の海運業競争を乗り越え、西南戦争では政府軍の輸送に尽力、三菱の海運業は主導的な位置を占めるようになります。さらに海運業のほかにも、造船業や銀行業など幅広い分野に進出、私的な利益の追求よりも国家としての目的を優先とする理念で三菱は発展しました。

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そんな岩崎彌太郎が幼少期を過ごした生家は、安芸市の中心部から車で10分ほど行った、のんびりとした穏やかな景観の広がる自然豊かな場所に位置しています。

茅葺の母屋のほか、土蔵などが建つ敷地の周囲を生垣に囲まれており、庭には、弥太郎が少年時代に、壮大な夢を描きながら自らくみ上げたという石が並んでいます。土蔵の鬼瓦には岩崎家の紋「三階菱」が見られ、この紋と土佐藩主山内家の三葉柏の紋を組みあわせて、おなじみの三菱のマークが出来上がったといわています。

江戸時代の郷士の生活の一端がうかがい知れると共に、現在に至るまで日本の中心的な企業体である三菱の基礎を作った弥太郎の幼少時代の面影をしのぶことができます。

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日本列島の石組み

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弥太郎が少年時代に天下雄飛の夢を託して、自ら石を組んだといわれています。弥太郎は、「日本列島は、我が庭の内にあり」といって庭を眺めていたといいます。器の大きさをうかがい知ることの出来るエピソードです。

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龍吐水。岩崎家の土蔵にあった消防ポンプ車を修理保存したもの。

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