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姫路城

姫路城

天下の名城

兵庫県姫路市。JR姫路駅中央口から片側三車線の立派な並木通り(大手前通り)を北方向に進むと、正面に堂々たるお城が見えてくる。白く美しい壁。圧倒的な存在感。言わずと知れた天下の名城、「姫路城」である。今や国内各地からのみならず、世界中から観光客が訪れるまさに日本を代表する城の一つだ。廃城、崩壊、炎上などの危機にあいながらも、まるで何かに守られているかのようにそれらの危機を乗り越え、17世紀に建てられた当時の姿を現在も随所に残しながら、今日も姫路の町を静かに見守る壮麗美秀な城である。

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白鷺城

姫路城は別名「白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)」と呼ばれる。白鷺が羽を広げたような美しい姿から名づけられたと言われるこの「白鷺城」の呼び名の由来には他にも幾つかの説があって、黒い壁を持ち「烏城」と呼ばれる岡山城との対比で名づけられたという説や、鷺が城内に沢山住んでいたから、という説もある。いずれにせよ、その白い漆喰の壁の美しさと壮大な外観が、多くの人々に白鷺を連想させたであろうことは想像に難くない。現在ではライトアップもされている姫路城。闇夜に照明を浴びて、すっくと建つ白磁のような美しさは思わず息を呑むほどで、暗闇の中で静かに佇む一羽の美しい鷺を連想させるのだ。

姫路城

姫路城の歴史

南北朝時代の武将・赤松貞範によって姫路城の基礎である城が築城されたと伝えられるのが1346年のこと。しかし、当時の姫路城は城と呼ぶにはお粗末なもので、どちらかというと砦の様なものであったと言う。その後、1500年代前半に入城した黒田重隆によって改築が行われ、さらに豊臣秀吉が居城、次第にその規模は拡大していき、現在の様な姿になったのが江戸時代。関が原の戦いで戦功を上げた池田輝政入城後のことだ。池田輝政は1601年、姫路城の改修を開始する。徳川家康の命を受けて行われたとされるこの大改修により、姫路城は広大な敷地を持つ大城郭へと変貌を遂げるのである。一説には延べ4千万人ともいわれる人々が駆り出され、八年の歳月を経て姫路城は完成した。

その後、池田輝政から本多忠政へと城主が代わり、1618年(元和4年)には西の丸が整備される。こうして姫路城はようやく現在の様な姿になるのである。

姫路城

姫路城倒壊の危機

天下の名城として名を馳せた姫路城だが、1700年代に入ると藩の財政を次第に圧迫していくこととなる。というのも、姫路藩は、山陽道の要にある重要な藩でありながらも、石高は15万石しかなく、大きすぎる姫路城の修繕維持費の負担は決して小さいものではなかったのだ。日常的に必要な修繕に加えて、年を経るごとに梁や柱の傷みもひどくなり、礎石が天守の重さに耐えられずに沈み、天守全体が傾いていく有様。それを揶揄した庶民の間では「東に傾く姫路の城は 花のお江戸が恋しいか」などと謡われたという。

なんども修繕を繰り返すものの、予算や技術等の制約により根本的解決には至らず、ようやく明治期に入り大修理が施される。しかし、国費九万三千円をかけ陸軍主体で行われたこの明治の大修理でさえも、姫路城の傾きを修正するには至らず、傾きの進行を食い止めるに留まったのであった。その後1934年に始まった昭和の大修理により、ようやく姫路城の傾きは修正されることとなる。この昭和の大修理は、建物を一度解体し、腐敗した木材などを取替え、もう一度組みなおすという大規模なもので、およそ10億円の費用と戦争による中断を挟みながら、30年の月日を要した。

姫路城解体の危機

徳川の世が終わり、明治の御世になって、各地には廃城の嵐が吹き荒れる。これは政府によって出された軍の財産として残すことを決めた城以外は払い下げや売却、取り壊しを行うという「廃城令」によるもので、姫路城も売却の憂き目にあい、競売によって23円50銭という金額で、売り払われてしまったのである。この23円50銭という金額は現在の貨幣価値に直すと約20万円前後といわれる。驚くほどの安値で、一市民に売られてしまったのである。城を買い取ったのは、姫路城下に住む金物商で、城を解体し、瓦や金属部分を売却する目的で買い取ったのだという。しかし、一般民家の瓦に比較して、はるかに大きな城の瓦は使い物にならず、なおかつ解体費用も思わぬ巨額であったことから、城を放置。その後、姫路城の文化的価値に目をつけた陸軍によって買い戻され、幸運にも姫路城は解体されずに生き残ったのである。

姫路城炎上の危機

姫路には戦争中、陸軍の部隊が置かれており、空襲の目標になることは明らかであった。中でも、町の中心に聳える姫路城は、その壁の白さゆえに大変目立ち、攻撃目標とされるのが大方の予想で、それを少しでも防ぐために、黒の防御網がお城にかけられ、カモフラージュが行われた。しかし、1945年(昭和20年)7月3日、姫路は大空襲に見舞われ、町の主要部分は焦土と化してしまう。城の天守にも焼夷弾が直撃したが、幸運にも不発に終わり、焼失を辛くも免れたのであった。空襲の翌日、焼け野原と化した姫路の町に颯爽と建つお城の無事な姿を見て、町の人々は涙を流したと言う。

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