原城跡~長崎切支丹哀史「島原の乱」と「原城」~

長崎の教会群とキリスト教関連遺産

長崎県島原 原城跡

長崎切支丹哀史「島原の乱」と「原城」

長崎県

人は幸せを求める。

この世に生を受け、そして命が尽きるまで。幸せになりたいと願い、幸せでありたいと願う。それはとても自然なことだろう。生命の根本原理は幸せを求めること。普通に生きている限り、幸せになる権利はきっと誰にでもある、と人のいう。生まれや身分や性別や肌の色に関係なく。

きっと彼らの願いも大それたものでは決して無かったに違いない。日々の食事を摂り、健康に働き、家族仲良く暮らす。時には誰かの誕生や結婚を祝い、又時には誰かとの別れを悲しむ。そんなごくごく普通の生活。それが彼らの望みであったろうと思う。しかし、現在のように物がありふれているわけでもなく、好きな職業につけるわけでもなかった時代、そんなごく普通の幸せは決して当たり前の事ではなかった。明日の食べ物の保証は無く、日照りや洪水で懸命に育てた作物は被害を受け、あまつさえ重い年貢や労役を課せられる。飢えに病気に怪我に家族離散。寺や神社にすがっても、苦しみから解き放たれるための明確な答えが出るわけではない。直接救いの手を差し伸べてくれるわけでもない。

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そんな時、彼らが、西の国からやってきた男達が説く教えに耳を傾け、それを信じる心を持ったのは当然の流れだったのかもしれない。共に働き、共に笑い、彼らの苦しみを理解しようと努め、そしてその苦しみから彼らが放たれる日の事を説いて聞かせる。威張りちらし、重い年貢を取り、困っている時も助けてはくれない役人や、儀礼儀式化してしまった旧来の宗教にすがるべくも無かった彼らには、一筋の光明が差し込んだような気がしたのではないだろうか。

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1637年、過酷な年貢の取立てにたえかねた島原の農民達が一揆を起こす。それが天草地方にも飛び火。一帯に広がった。その多くがキリシタンであった農民達(実際には武士もまざっていたという)は、宇土領主・小西行長の家臣、益田甚兵衛の子・四郎時貞(天草四郎)を指導者として擁立。幕府軍に押されながらも、カリスマ的な天草四郎時貞を中心に結束を固めていった。世に言う「島原の乱」である。同年12月、農民達は廃城になっていた原城に立て篭もる。

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1549年に日本に渡ってきた宣教師達が、数々の障害にも屈せず熱心に布教をした結果、一説には、1614年に信徒数65万人を数えるまでになったという。大名などもいたが、信徒の大部分が市井のそれほど豊かではない人たちであった。現在の信徒数が50万人とも言われているので、これがいかに大きな数字かわかるだろう。この数字の大きさが当時の人々の生活の困窮の度合い、日々の苦しみの大きさを端的に示している。藁にもすがりたくなるような気持ち。今までのやり方で幸せになれなかったなら、人は新しいものに惹かれる、それは自然の成り行きなのではないだろうか。

ところで。宣教師が渡来~キリスト教の布教活動~信徒の増加~キリシタン迫害、の歴史には別の面、別の見方、別の説があることをご存知だろうか。なぜ、最初は宣教師達に理解を示していた秀吉をはじめ、家康から家光にいたるまで、邪教として厳しくキリスト教を禁止し、キリシタンをそこまで弾圧迫害するようになったか。なぜ迫害があれほど苛烈を極めたのか。

迫害の激しさばかりが取り上げられ、そこに至るまでの過程や、容易に理解しうる経緯はそれほど知られていないのだが、まず多くの識者が指摘するのが、西洋諸国のキリスト教布教とそれに伴う植民地拡大というやり方である。

まず、辺境の地に宣教師を送り込み布教をさせる。そして一度(ひとたび)現地の人々の感化、キリスト教への改宗などが進展成功したとみるやいなや、自国民である宣教師や財産(原住民から略奪したものも含め)の保護という名目の元に軍隊を送り込み、時にはその国の政治機関を停止させ抵抗する先住民を殲滅してしまうそのやり口。

インカ帝国を始めとするアンデス文明やアステカの崩壊消滅の例をあげるまでもないだろう。(インカ帝国の事例のように場所によってはいきなり軍事力を送り込むこともあったが、)多くの場所で、キリスト教の布教を楯に、領土を広げていったり、原住民を追い出していったことは歴史が証明している。無論、これはキリスト教そのものが悪いと一概に言えることではない。加担していた部分が全くなかったわけではないにせよ、全般的には、時の権力者が宗教を「利用した」と考えることも当然できる。責められるべきは為政者であるということも出来る。だが、利用されたにせよ、「キリスト教」という看板が表に大きく掲げてある以上、それを切り離して考えることはナンセンスともいえる。宗教を「利用」しての領土拡大。自分達の絶対正義を信じ込み、救済と言う言葉の魔力でもって、非キリスト教国を侵略蹂躙する。武力でもって制圧する。当時のスペインやポルトガルのこのやり口に気がついた豊臣秀吉が、危惧を抱き織田信長に進言したという話が伝わっている。勿論、遠く南アメリカで起きたことなどは詳しく知る由もなかったであろうが、フィリピンの話は耳に入っていただろうし、よく言われる封建制度との衝突ゆえの禁教という簡単な図式ではないようだ。

また、キリスト教への改宗を半ば強制的に行ったケースがいくつもあったという点。実際、キリシタン大名であった大村や有馬の領地では、神社や寺院が数多く破壊された。それらは宣教師指導の下に行われたという。

さらに、人身売買の話も指摘されている。九州のキリシタン大名の領地を中心に、何人もの女性達が奴隷として連れ出され、国外に売られたと言うのだ。それは主に貿易商人がおこなったようだが、宣教師が関わっていたという話もある。それに激怒した豊臣秀吉がキリスト教を禁教し、宣教師を追放したというのだ。

いずれにしても真相は歴史の闇の中だ。その当時の状況は実際には正確にわからないし、為政者や宣教師達、そして当時のヨーロッパ諸国の意図もわからない。歴史には色々な面があるし、それぞれの立場によって、見方も考え方も感じ方も違うだろう。宗教的な事も単純に判断できることではない。

しかし、ただ一ついえるのは、いつの時代も犠牲をしいられるのは歴史に名を残すこともない普通の人々だということだ。時代に翻弄され、為政者に強制され、我をも知らず受難者となる。仮に、そこには無知や貧困や蒙昧もあるのかもしれないにしても、そもそも、当時の人々には選択権など殆どないのである。圧倒的な力の前になす術もなく振り回され、不条理になぎ倒されてしまう。理不尽な体制の波に飲み込まれてしまう。

原城跡
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いつの時代も変わらない。
人々は普通に生きたいと願い、普通に死にたいと思う。
人並みに笑い、人並みにご飯を食べ、人並みに眠りたい。

人間としての普通の生活。人間としての尊厳。そんなものを脅かされ続け、最早どうにもならないと判断した時、人は立ち上がるしかない。その先に、光がないとわかっていても、光を見出すしかないのだ。

草茫々の原城跡で思う。イデオロギーがなんであれ、普通の人々が普通の幸せを望んだ、ただそれだけではなかったのかと。

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天草四郎と農民達が原城に篭って三ヶ月。1638年(寛永15年)2月27日から28日(新暦4月11日~12日)にかけての総攻撃で原城は陥落してしまう。この原城陥落で、3万7000人の人々が命を落としたという。その中には大勢の女子供老人が含まれていた。

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見渡す限りの草原(くさはら)に、今やその面影はない。ただざわざわと草がそよぎ、海風が吹き抜けるだけだ。

原城跡
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長崎県島原
原城跡

人の想いの積み重ねは
一体どこに消えてゆく
人の願いの堆積は
一体どこに消えるのだろう
心の叫びは大きな嵐の前に
かき消されてしまうだけなのか

海から吹き上げてくる風は
優しげな哀しみをおびた色だった
それは二の腕あたりを通りすぎ
重たい空に消えていった

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明治政府が「信教の自由」を条文に盛り込んだ明治憲法を公布したのは1889年(明治22年)2月11日のこと。原城陥落から実に250年後のことである。

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