長者ヶ原廃寺跡
公開日: 2015年9月18日 | 最終更新日 2015年9月19日
東北自動車道平泉前沢ICから車で約5分、北上川と衣川の間の田園地帯(岩手県奥州市衣川区)にある長者ヶ原廃寺跡は、平安時代にこの地にあったという大寺院の跡だ。
今は、見渡す限り草原が広がっているが、かつてはここに本堂をはじめとする数々の壮麗な建物が並んでいた。当時、格式の高い寺院にしか許されていなかったという築地塀が約100メートルに渡って四方を取り囲んでおり、本堂のほか、南門や西の塔(堂宇)などがあったことが発掘調査で判明している。
出土品などから、奥州藤原氏の縁戚である豪族・安倍氏によって建立されたと目されているこの寺院は、その安倍氏が、前九年の役(1051年~1062年)で源頼義・義家や清原氏によって滅ぼされた際に焼失したとされ、源義経を匿った奥州藤原氏を滅ぼした頼朝が、1189年(文治5年)9月にこの地を訪れた時には、既に建物はおろかその痕跡さえもほとんどなく、ただ秋草が生い茂っていた、と「吾妻鏡」に記されている。
それからちょうど500年後の1689年(元禄2年)5月に、この長者ヶ原廃寺跡から3キロメートルほどの場所にある平泉の高館を訪れ、「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだのが松尾芭蕉だ。
「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」奥州藤原氏の栄枯盛衰。そして義経の最期。時は瞬く間に過ぎていき、人も建物もいつしか消えてなくなってしまう。
義経を討ってから三ヶ月後、秋草を眺めながら、頼朝は何を思ったのだろうか。そして、その500年後に、夏草を眺めながら、松尾芭蕉の胸の奥底に去来したものは何だったのだろうか。