琉球王国のグスク及び関連遺産群(沖縄の世界遺産)

琉球王国のグスク及び関連遺産群

沖縄の世界遺産

沖縄に農耕を基盤とした社会が確立し、琉球諸島各地に按司(あじ)と呼ばれる豪族が出現し始めたのが、11世紀~12世紀頃といわれている。彼らはグスク(城)と呼ばれる拠点を築き、一帯を支配した。数多くの戦を経て、琉球が三つの国に為ったのが14世紀。それぞれ、浦添の英祖王統を滅ぼした察度(さっと)が治める中部の「中山」、承察度(しょうさっと、うふさと)が治める南部の「南山(山南)」、怕尼芝(はにじ)が治める北部の「北山(山北)」といい、この三山時代と呼ばれる時代は100年ほど続いた。その後、15世紀に入ると南山の佐敷按司であった尚巴志の勢力が台頭、琉球を統一し、琉球王国が出来上がる。

琉球王国は、海外とも広く交易を行い、国際色豊かな独自の文化を形成した。その琉球王朝の文化遺産と、琉球王朝成立以前の遺構は今も数多く沖縄に点在している。それらのうち特に重要とみなされ「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として2000年12月に世界遺産に登録されたのが、琉球王国の中心であった「首里城(しゅりじょう)」を始めとして、「今帰仁城跡(なきじんじょうあと)」、「座喜味城跡(ざきみじょうあと)」、「勝連城跡(かつれんじょうあと)」、「中城城跡(なかぐすくじょうあと)」、「園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)」、「玉陵(たまうどぅん)」、「識名園(しきなえん)」、そして「斎場御嶽(せーふぁうたき)」の9箇所だ。

首里城と、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園以外は中心部から些か離れた場所にあるが、2日あれば(車を使っての駆け足なら1日も可能)巡る事が出来る。3日もあれば充分堪能することが出来るだろう。特に、晴天の日の人の居ない午後の城(グスク)の石垣の上から爽やかな風を感じながら眺める青い海と周辺の光景は印象的でおすすめ。歴史に思いを馳せながら、色々と物思いに耽るのにももってこいだ。沖縄の定石「綺麗な海と美味しい食べ物」とは又一味違った魅力、沖縄の歴史、美しさ、醍醐味。吹き抜ける琉球の爽やかな風を感じに出かけてみてはいかがだろう。

今帰仁城跡(なきじんじょうあと)

今帰仁城跡

今帰仁城跡

1月に咲くカンヒザクラ(寒緋桜)で名高い今帰仁城跡は、14世紀、琉球王国成立以前にこの地に存在した北山の国王「北山王」の居城であった場所。東西800m、南北350m、面積にして37,000平方キロメートルという広大な敷地を誇る。1972年(昭和47年)に国の史跡に指定されている。

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座喜味城跡(ざきみじょうあと)

座喜味城跡

座喜味城跡

別名「読谷山城」と呼ばれる座喜味城は沖縄県中頭郡読谷村にあった城(グスク)。 1416年から1422年にかけて、琉球王国の按司(あじ/あんじ・・・琉球王国の称号/位階の一つ)護佐丸(ごさまる)によって築かれたといわれている。沖縄最古といわれるアーチ型の石造門と美しくも堅牢な切石積みの城壁。城壁に上ると、ほぼ360度の絶景が広がり、残波岬や読谷村が一望の下に見渡せる。

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勝連城跡(かつれんじょうあと)

勝連城

勝連城跡

中城湾と金武湾の間に位置する勝連半島の付け根部分、両湾を見渡すことのできる標高60m~100m程の丘にある勝連城は、13世紀から14世紀にかけて築城されたといわれる城だ。琉球王国時代には独自に海外との交易を行い、往時には首里城と並ぶほど栄えていたという。琉球統一を目論見、クーデターを起こした阿麻和利の城として有名。

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中城城跡(なかぐすくじょうあと)

中城城跡

中城城跡

14世紀中頃先中城按司(さちなかぐずくあじ)によって基礎が築かれたと伝えられる城。その後、阿麻和利の動向を監視するために、琉球王朝の命を受けた護佐丸が座喜味城から移り住み、三の郭と北の郭を増築し、完成させた。標高167mの高台に築かれており、守りやすく攻めにくい構造になっている。戦争中に、軍が防空壕を作ろうと試みるが、そのあまりの堅牢な造りに、断念したという話があるほど。城壁の上からは東シナ海、中城湾と島々を見渡す事が出来る。

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首里城跡(しゅりじょうあと)

首里城跡

首里城跡

琉球王国の政治、外交、文化的中心であった首里城は、1429年から1879年までの450年間に渡り琉球王国の国王の居城であった城。築城年代は定かではないが、発掘調査などで、14世紀の末頃までには築かれていたことがわかっている。高さ120mの丘の地形を巧みに利用して築かれた城は、周囲をぐるりと琉球石灰岩の城壁に囲まれ、内部には正殿・北殿・南殿・奉神門などの様々な建造物が建ち並んでいた。また敷地内には10箇所にのぼる御嶽(うたき)があり、琉球有数の聖地でもある。廃藩置県と戦争、さらに戦後に琉球大学が建設された事により、歴史的に重要な遺構の多くは失われてしまったが、1958年(昭和33年)守礼門が再建されたのを機に首里城再建の機運が高まり、大学移転後に復元は本格化した。

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園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)

園比屋武御嶽石門

園比屋武御嶽石門

園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)は1519年に第二尚氏王統第三代王尚真王時代に築かれた門で、園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)の礼拝所として使用された場所。守礼門と首里城の正門である歓会門の間にある。かつてはこの園比屋武御嶽石門の後ろに御嶽(うたき)の広大な森が広がっていた。御嶽(うたき)とは沖縄の「聖地」「聖域」のことで、園比屋武御嶽石門は歴代の琉球国王が首里城を出て各地を巡る際に道中の安全などを祈願して必ず拝礼したと伝えられる場所だ。琉球王朝に命じられて鄭秉哲が編集した琉球各地の名所旧跡、御嶽、儀礼や官職、諸事の由来、年中行事などを記した地誌「琉球国旧記」には「この神に祈れば必ず己に応ず」と書かれており、現在でも沢山の人が拝礼に訪れる。

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玉陵(たまうどぅん)

玉陵

玉陵

玉陵(たまうどぅん)は、尚真王が見上森(みあげむい)に葬られていた父尚円王の遺骨を改葬するために築いた陵墓。築墓は1501年で以降、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている。2,442平方メートルの敷地内に沖縄特有の、屋根が破風形の家屋の形をした破風墓と呼ばれる形式の三つの建物「中室」、「東室」、「西室」が並ぶ。当時は王族にしか許されていなかったこの墓の形状は1879年に解禁されて以降一般にも普及し、現在の沖縄各地で見られる形状だ。「中室」は洗骨(せんこつ)と呼ばれる琉球地方や奄美、東南アジアに伝わる葬送儀式を行う前の遺骸を安置する場所で、「東室」には王、王妃の骨が納められ、それ以外の王族の骨は「西室」に納められている。世界遺産に指定されているほか、墓全域が国の史跡、玉陵墓室石牆が国の重要文化財(建造物)、石彫獅子と玉陵碑が県の有形文化財(彫刻)にそれぞれ指定されている。

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識名園(しきなえん)

識名園

識名園(しきなえん)

1799年に完成した琉球王家最大の別邸。主に王族の保養や中国皇帝の使者である冊封使(さっぽうし)の接待など外交の場として使用された。琉球独自の意匠と中国の影響の入り混じったデザインで、池の周りを回遊しながら四季折々の風景が楽しめる「廻遊式庭園」。池を中心に、御殿、六角堂、勧耕台、石橋、碑文等が配置されている。1941(昭和16)年、国の名勝に指定されたものの、戦争で壊滅的な被害を受け、戦後復元される。1976(昭和51年)年、国の名勝に再指定、さらに2000(平成12)年には国の特別名勝に指定された。敷地面積は41,997平方メートル。

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斎場御嶽(せーふぁうたき)

斎場御嶽

斎場御嶽

御嶽(うたき)とは、琉球の神が居るもしくは降りてくるといわれる「聖地」「聖域」の総称。中でも斎場御嶽(せーふぁうたき)は国始めの七御嶽の一つともいわれる琉球で最も格式の高い聖地だ。「斎場(せーふぁ)」とは「霊威の高い聖なる場所」「最高位」の意で、斎場御嶽は文字通り「琉球最高の聖地」となる。琉球の始祖神アマミキヨが造ったといわれる場所で、域内には、アマミキヨが天から降りてきて国づくりを始めたという聖なる島「久高島」が見える箇所「久高遙拝所(くだかようはいじょ)」がある。かつては男子禁制の場所であり、斎場御嶽の入り口御門口(うじょーぐち)から先へは例え国王であっても、袂の合わせを女性のそれに変え女装しなければならなかったという。ちなみに斎場御嶽は通称で、正式な神名は「君ガ嶽、主ガ嶽ノイビ」。沖縄有数のパワースポットとしても知られる場所だ。

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