富士登山記

写真・文 Micoo

富士山山頂

一歩。そしてまた一歩。足場は岩だらけだ。ごつごつして歩きにくい。これがあの美しい山なのか。ただのガレ場じゃないか。岩だらけの砂礫だらけ。火星の表面なんかもこんな感じなんじゃないんだろうか。一体、五合目を出発してからどれくらい経っただろう。一合一合がとんでもなく遠い。それに距離もおかしい。五合目から六合目と、六合目から七合目、七合目から八合目と距離が違いすぎる。疲れてきたからそう思うだけなのか。斜面が急になって空気が薄くなってきたからそう思うだけなのか。

ゆっくりゆっくり足を運ぶ。息が苦しい。ときおり突風が吹きすぎる。身体が浮きそうになる。そのたびごとに身体を低くしてやり過ごす。ただ頭を垂れて、早く通り過ぎてくれと願いながら、静かになるのを待つ。普段の生活で風に飛ばされるなんて考えもしないが、ここにいれば実にあっけない。簡単に飛びそうになる。本気で恐怖を感じる。人間なんて、ちっぽけなもんだ。十代の頃は青臭く、「人間なんて。」などと経験も何もないくせに既存の価値観と自分自身に反抗する事がさも自己のアイデンティティでもあるかのように風を切りながら斜に構えていたが、あれから数十年経った今だって、結局結論は変わらない。多少の経験と世間の「垢」にまみれて何かを失っただけで、大方は何も何も変わりはしない。やっぱり人間なんてちっぽけなもんだ。ちょっと地球がきまぐれを起こしただけで、いともたやすく吹き飛んでしまう。持って行かれてしまう。頭がぼんやりと痛い。寝不足のせいか、酸素不足のせいか。ぼーっとする。夢を見ているようだ。いや、これは本当は夢なのかもしれない。わずか百メートルがまるで永遠のように感じられる。足を運んでも足を運んでも、頂上は見えてこない。

ふらふらとしながら、岩に腰掛ける。もう、いい。もうやめよう。こんな事をして一体なんになる。誰もせめやしない。そうだ、山登りで無理をしてはいけない筈だ。もうやめよう。いや、ここでやめてどうする。色々やりくりしてようやくここまで来たんじゃないか。まだ全然いけるはずだ。頑張れ。心の中で、天使と悪魔がやりとりする。駆け引きする。もうやめよう。まだまだいける。頂上まで頑張れ。自分を甘やかしたり叱咤したりする。そのたびに心は揺れ動く。下山の誘惑に負けそうになる。下山して楽になりたい。温泉に浸かって、身体を休めたい。

一通り、心の中で悶着したあと、ようやくまた歩き始める。そうだ。こんなところで弱音を吐いている場合じゃない。温泉は頂上まで行って降りてからでいい。温泉に入って、さっぱりしたらビールで乾杯だ。

ふと見ると遠くのほうで何か地面を動いている。鳥か。こんな3000メートル以上のところでもきちんと暮らせてるのだろうか。餌はあるのか。そういえばちらほらと虫もいるから餌はどうにか大丈夫なんだろう。しかし、何を好き好んでこんな高所で暮らしているのだろう。餌も沢山あって環境もいい場所がいくらでもあるだろうに。そんな場所の存在もただ知らないだけなんだろうか。何か理由があるのだろうか。しかし、よく考えたら、自分だって同じことだ。何処かの誰かから見たら、わざわざ大変な方を選んで生きている様に見えるのかもしれない。もっと楽でいい環境なんていくらでもあるのだろう。

どうでもいいことをとりとめもなく考えてしまう。

下界はあれほど暑かったのに、気がつけば肌寒い。いや、肌寒いなんてものじゃない。半そでではとても居られなくなって来た。登りで身体は熱くなっている筈なのに、それを凌ぐほどの気温の低下。ものの本で読んではいたが、本当に気温がここまで下がるものなのか。うだるような暑さからは想像できなかった寒気。ザックから雨具を取り出して羽織る。そういえば、富士登山をふと思い立った若者が半そで短パンのまま登山を始めて途中で低体温症に陥って動けなくなって救助されたなんてニュースでやっていた。麓から見る美しさに感動して登りたいと思い、後先考えずに登り始める。若者らしい行動力。その気持ちも判らなくはない。しかし。無知と若さゆえの無謀が世界を変えることも(時には)あったとしても、やはり殆どは世間に迷惑をかける結果になってしまう。先の事を考えないずば抜けた行動力。それは単なる想像力の欠如でしかない。成功すれば英雄でも失敗すれば非難の的となってしまう。それは賢い大人のすることではない・・・。

などと、したり顔で偉そうな事を言っていても、ではそんなお前はどうなのだと問われれば、結局どこかで世間に迷惑をかけっぱなしだ。普段は自分で気付いていないだけだ。先のことなど考えていない。同じ過ちを繰り返す。知らなかったのなら、百歩譲ってまだ言い訳になったとしても、失敗して経験しても学ばないなんて、愚の骨頂ではないか・・・。

などと自ら呆れてみても、やっぱり実際には心から反省しては居ない。

いつからこんな風になってしまったのだろう。自らを甘やかして、言い訳ばかり。もしくは独善に陥って他者を貶める。ああ、下らない世の中を作り出しているのは、気がついてみれば、実は己の心か。逆送している人間は、自分が逆送しているとは思いもしないと聞くが、独善に陥った自分は、まさにそれか。自分は正しいと思い込み、うまくいかなくても相手のせいにする。世間のせいにする。独りよがりの世界は回る。

「結局、貴方は何もわかってない。わかろうともしなかった。」繰り返し繰り返し、さざなみのようにあの言葉が押し寄せる。「わかっていないのはお前のほうだろう。」負け惜しみの呟きは風にかき消される。そう、わかっていないのは俺のほうだ。自分の主張。自分のやり方。これがオレだなどという自負心はただの自己愛でしかない。他者の痛みをわかりたい、わかっているなどというのは甘い幻想。吐き気を催す偽善。世のため人のため、などという綺麗事は、所詮自分のためだった。変わる事を望み続け、希望の光を探しているふりをしながら、そのじつ結局待っているだけだった。自ら動く事をせず、運を天に任せているだけだった。

そんな自分に愛想が尽きた。ほとほとあきれ果てた。オレは一体なんなんだ?何がしたいんだ?どこに行きたいんだ?怒りと情けなさとやるせなさがごちゃ混ぜになって、身体の中を流れていく。汚らわしい血は、大動脈を流れ行く。どこにも光はない。どこにも道はない。一体どうすればいいのだ。

足元を上から落ちてきた小石が転がり落ちていく。ふと気がつけば、またどうでもいいことを考えている。いつ終わるともわからない苦しい旅路。それはさながら人生の様だ。一歩一歩ひたすら歩く。もはや気が遠くなるほどの歩みの繰り返しが心の隙をついてくる。単純作業、同じことの繰り返しをすると人の心の中には様々なものが去来するという。そういえば若い頃にした皿洗いのバイトの時もそうだった。延々と洗ってはすすぎ、また洗ってはすすぐという行為を繰り返していたら、実に様々なことが頭の中を行ったり来たりしたっけか。終わったらあれやろうこれやろう、そんな事も考えた。いや、思い出してみればテスト勉強のときもそうだった。ようは苦しいと頭の中が現実逃避するだけなのか。この繰り返しはいつ終わるのだろう。わずかな喜び楽しみの為に、文句一つ言わず苦しみを通り抜ける。良いことがあったと思っても、それは沢山のつらいことに対するほんの僅かな褒章。またぞろ大変な時間が続く。誰かが、「もういい、疲れた」とステージを途中で降りてしまっても一体誰が彼を責める事が出来るというのだろう。人の事を上から目線でどうのこうの言えるほど、自分は完璧なのか?

見上げると、どやどやと外国人の集団が降りてきた。下り道は別にあるはずだ。頂上にある標識が読めなかったのだろうか。道が狭いから渋滞が起きる。標高3000メートル以上の地でこれほどまでに渋滞するなんて日本だけだろう。考えてみればすごいことだ。3000メートルをはるかに越える山に、夏の登山シーズンの二ヶ月だけで40万人近い人が登るという。そのうち北岳や奥穂高に登った事のある人がどれだけいる事だろう。下手したら登山らしい登山をしたことのない人も居るだろう。それが登山初挑戦で3776メートルの山に登ろうというのだから。普通には考えられない話だ。あまりに有名で多くの人々が登るから、気軽な感じもしてしまう。山のプロに言わせれば、山を舐めてるという事になるのだろうか。それでも、なんだかんだといって、結構な数の人々が頂上まで行かれてしまうのだからすごい話だ。まあ、全ての人が頂上まで行かれないとしても、一つの山に僅かな期間でこれだけの人が登ろうとするのだ。渋滞が起きないわけがない。

人々がここまで富士山にひきつけられる理由はなんだろう。日本一の高さを誇る山だからか?勿論それもあるだろう。富士山が日本で3番目に高い山だったら、ここまで多くの人が登ろうとするだろうか。でもそれだけではない。高さが日本一だから、というだけでは説明のつかない、何か強いものが人々を富士山にひきつけている気がしてならない。言葉では言い表せない強い力を持っている山。富士山。我々人間を遙かに凌駕する存在感、安定感、雄々しさ、荒々しさ。一度牙をむけば、人間なんて簡単に吹き飛ばしてしまう嵐をある時は身に纏い、またある時は穏やかで例えようもない美しさを漂わせる。人を引き寄せ、人を突き放す。優しく微笑み、そして激しく猛り狂う。

あの岩まで頑張ろう、その岩までもう少し、と繰り返しながら、自分を騙し騙し登っていく。すぐそこにあるように見える山頂。簡単に受け入れてはくれない。赤茶けた道、道の両側にひしめく溶岩や岩の塊。そんな光景に、見慣れたというより見飽きたという表現がしっくり来る頃、ようやく頂上が近づいてきた。さすがに道のそこかしこでへばっている人たちがいる。空気の薄さが身にこたえる。息が続かない。二、三歩進んでは肩で息をする。こんなところを駆け上る人たちもいるというのだから、人間の能力も本当に様々だ。駆け上がるどころか、まともに歩く事すらできない。心臓が飛び出しそうだ。赤血球が、ヘモグロビンが大わらわで酸素を運んでいるさまが目に浮かぶ。

頂上は意外なほどに静まり返っていた。登山シーズンからはずれ、ツアー客があまりいないためだろうか。それともあまりにしんどくて皆しゃべる気力もないからか。人々は思い思いに岩に腰掛け、じっと前を見つめている。自分が来たほうを、そして自分が行くほうを見つめている。遠くでごろごろと雷の音がする。途中で諦めなかったもののみが味わう事の出来る達成感。心地よい疲労感。そんな通常の山の頂上で味わう事の出来る爽快感とは何か違うものが辺り一体を支配している。いや、心の中を支配している。もちろん達成感がないわけではない。しかし、爽やかさとは違うのだ。もう少し重厚でよそよそしくて近寄りがたい何か。普段決して味わう事のない、生命の深遠なる無辺際を垣間見た感覚だ。

生と死の鬩ぎ合いの中で、感覚は次第に埋もれていき、目は濁っていく。それでも、心は純粋な光を求めてやまない。眩い光を求めて止まない。それは空から舞い降る光かもしれない。いつかいつか、そう願い続けながら、人は死んでいく。一瞬の煌めきは、その眩さは、線香花火が消え落ちる瞬間のあの眩さに似ている。それは、切なさと儚さを孕んだ一瞬の輝き。それは、ひたすら耐え続けたものが放つ命の刹那の煌めき。それはさながら富士山の様に美しさと激しさが入り混じった世界。崇高さと純粋と汚濁と激情が交差する。人は光を求め続ける。心は光を追い続ける。そうして、幻想と記憶の混在した一瞬の光で、ほんの少しだけ生き延びる事が出来る。希望という名の幻の光を胸に、また日々を生き抜いていける。

富士山

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