楠原教会

楠原教会

レンガの色 人々の想い

長崎県五島市

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一般的には明治の治世になり漸くキリスト教禁教が解かれたようなイメージがあるが、 正式に太政官布告によりキリシタン禁制の高札が撤去され、禁教令が廃止となったのは1873年2月24日のことである。1865年に大浦天主堂でプティジャン神父により信徒が発見され、長崎全域はおろか遠く福岡の、それまで隠れキリシタンに甘んじていた信徒達もその存在を自ら続々と明らかにしたのだが、幕末の混乱期とはいえ、藩側が黙って見過ごしたわけではなかった。ぞくに「浦上四番崩れ」と呼ばれる取締りが行われたのが1867(慶応3)年6月4日未明のこと。長崎奉行のキリシタン一斉検挙の方針の下、雨風吹きすさぶ中、奉行所側役人170名が浦上を急襲、信徒の中心人物と目される68名を逮捕し、拷問にかけたのであった。これは外国政府の抗議により、釈放という形で一応の解決をみたのだが、翌1868年、今度は浦上の村民3000人あまりを全員根こそぎ流刑に処すという強硬手段が取られたのであった。二回に分けて執り行われたこの処分で中心的な信徒を始めとする信徒全員が山口や広島、四国の辺境や炭鉱に流されたのであった。

このような政策が長崎本土でのみ取られたわけではない。福江島を始めとする五島列島においても例外ではなかった。

ここ楠原の住民は元々、厳しい弾圧を逃れ外海などからやってきた人々であった。年貢の取立ては厳しかったものの、土地にも恵まれ、比較的穏やかな生活を営むことが出来たという。とはいえ当然表立って信仰生活をすることは出来ず、仏教徒を装い静かに暮らしていたのたが、ペリーの来日以降の開国への動き、続く宣教師の再来、そして長崎の隠れキリシタン信徒発見の方に接した人々は、自分達もまた次第にその存在を公にし互いに連絡を取るようになったのであった。

ところが、前述のように幕末の藩も、新政府もキリスト教の信仰をまだ認めたわけではなかった。1868年(明治元年)に始まったキリシタンの逮捕収監は、楠原や水之浦などの信徒達を次々と牢へ送り込むこととなる。そこでは厳しい取調べが行われ、棄教改宗をせまる拷問が、徳川家光の時代さながら行われたという。過酷な拷問に耐えかね、とりあえず口先だけの棄教を述べてようやく帰郷が許された信徒達を待っていたのは、近隣の住民による、農地や家などの略取略奪であった・・・。

そんな苦難の歴史を乗り越えて、この楠原教会が完成したのが1912年(明治45年)のことである。青砂ヶ浦教会完成後に鉄川与助によって建設されたと言われている。その外面や内部の構造もよく似ている。歴史を感じさせる表側のレンガのくすんだ色と内部のコウモリ天井と柱と壁の白さのコントラストが美しい。

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教会をたずねる際のマナー注意点

教会は信者の方達の祈りの場です。見学は自由に行える場所が多いですがマナーを守り、静かに訪問しましょう。

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楠原教会

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長崎の教会群とキリスト教関連遺産

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