富士吉田火祭り

吉田の火祭り 山梨県富士吉田市

灼熱の炎の祭り

肌感覚の喪失とでも言おうか。電化製品に周りを囲まれ、室内温度も簡単にコントロール出来、検索もコンピューター、買い物もオンラインでと、ついぞ百年前にはおよそ想像もつかなかったような様々なことが手軽に出来るような便利で快適な世の中になって、私達は五体で感知する能力を徐々に、しかし確実に失ってきている気がする。目も耳も、圧縮されたものや増幅されたもので誤魔化され、麻痺。匂いや味も「不」自然なものにいつのまにか慣れて(慣れさせられて)本物を味わいとるという本来の機能を失いつつある。木や石などの自然素材で出来たものが身の回りの品から少なくなって、これまた「不」自然な素材が溢れ、触感もどこかおかしくなっている。(特に都会生活においては、)人はいつのまにやら、きちんと「自然のリズム」を感じ取るという行為をしなくなり、またその能力を著しく失ってしまったように思えてならない。調和と霊感はいまや殆どどこにも見当たらない。

問題なのは、そうして五感がどこか鈍ってずれておかしくなった結果、いつのまにやら頭でっかちで薄っぺらくなった自信過剰な人間が、何でも出来ると思い込み、自然をもコントロールできると錯覚し、あたかも自分達が自然界の頂点であるような傲慢で独りよがりな勘違いに陥る事だ。謙虚さを失い、無知蒙昧が加速していく。(本来的に持っているはずの)「物事を正しく知覚する」という能力を忘れた人間がどうなってしまうのか。

吉田の火祭り

例えば、火は熱い。これは誰もが知っている事実だ。教科書で習わなくても、誰かに教わらなくとも、気がつけばいつのまにか知っている事。教えられた事を忘れているだけで、大方は赤ん坊の頃に教えられ、感覚として会得したものかもしれないし、もしかしたら、脳のどこかに原始記憶として焼きついたのかもしれない。しかし、いつとはなしに知っているのが火の熱さ。しかし、今の世において、「火の熱さ」をリアルに体感する機会がどれ程あるだろうか。頭では判っている、「火は熱い」ということも、実は「頭で判っている」だけで、ただの知識となりさがってはいないだろうか。普段は忘れてしまっている火の熱さ。火の熱さを忘れているという事はすなわち火の恐ろしさをも忘れているという事。写真で見る火。映像で見る火。遠くから見る火。なんとなくおぼろげに恐ろしいものだ、熱そうだ、怖いなと思っても、それは脳の何処かが感じているだけ。肌の感覚ではない。この、人類最大の発見とも言われる「火」についての現代人の間違った感覚、認識は、人を傲慢にさせるのにあまりに単純で当然のきっかけになり得る。自然災害にしても、人的な災害にしても、遠くのほうで知覚するだけで、それは自分にとっては現実ではないからだ。

山梨県富士吉田市で毎年8月末に二日にわたって行われる「鎮火大祭」は、「吉田の火祭り」、「すすき祭り」と呼ばれ、毎年10万人以上の人出で賑わう北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社両社の秋祭りだ。特に初日は、お神輿と富士山を模した御影が町内を一周し、その後に70本以上の筍形に組まれた松明に一斉に火が灯されるというシンプルながらもダイレクトで強烈なもの。日本三奇祭の一つにも数えられる祭りだ。松明は町にゆかりのある企業や市民等が奉納したもので大きなものは三メートル以上。金鳥居と呼ばれる大鳥居を拠点とし、通称「富士みち」と市民に親しまれる、富士山に向って伸びている一本道に沿って延々と燃え盛りながら松明は並び立つ。周辺一体が数百メートル四方にわたってまるで火の海と化したような様相になる。それはあたかも富士のお山が噴火して、たけり狂った溶岩が流れてくる様をも髣髴とさせる光景。勇壮というにはあまりに直接的で、美しいというにはあまりに破壊的。そして、その場に立つと、(当然といえばあまりに当然なのだが)実に熱いのである。そう、「知識」としての「火の熱さ」、忘れていた「火の怖さ」を眼前にぐいと突きつけられる。それは「火」という存在を通して、富士山、ひいては大自然に対する畏怖と尊敬の念をも呼び起こさせる。普段忘れがちな自然に対する畏敬の念。まさに「鎮火祭」という名の通り、火を奉り、火の熱さを通して噴火の怖さを擬似的に体験する事で、富士山の平安を祈り、日々の生活の無事を祈る。

人間の身体に怪我や病気を自然に治癒する能力が備わっているように、人間はその集合体としても、経験や学習をもとにした智慧をもってして、自らを律し、背筋を伸ばし、溜まってしまった滓を浄化する能力を持つはずだ。それは為政者に押し付けられ、洗脳されている事にさえ気付かない一種のガスぬきの催し物とは違う、人間本来の善意と良識から生まれ出たものであると信じたい。人間が本来的に持っている筈の能力。自然の一員として、無駄な破壊はせず、他者を慮り、助け、思いやるという精神。日頃忘れがちな感謝と尊敬、畏怖と謙虚。それらを、こうした「祭り」という形態をとった情動が、本当に大切なものは何かという事を自らに問い直す作業を経由して、思い出させてくれる。

そう、「火」は熱いのだ。そのあまりに当然の事を忘れた時、人に未来はない。大事なものを、肌感覚として思い出させてくれる祭り、それが「吉田の火祭り」だ。

吉田の火祭り
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富士吉田火祭り
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