日吉神社

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津軽のヒーリング・スポット

感覚が鋭いとか第六感が働くとか何処かに行くと目に見えない何かを感じるとかいう体質ではない。むしろ霊感などとは程遠い鈍感な体質だと自分では思っているのだが、それでも世に言うヒーリング・スポットだとかパワー・スポットと呼ばれる場所に行くと何かを感じるような気がするのは確かだ。名のある神社に行くとその神社の敷地との境界線で明らかに異なる空気を感じるし、特別と言われる水や木に、何かこう”気”と言うかある種のパワーみたいなものを感じたりもする。

日吉神社

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それは自分が何かの一部であると朧気ながらも感じさせられる瞬間でもある。普段の生活の中で個というものに分けられ弧を感じつつも否応なく本体から断絶されてしまっている状態から、自然の一部であり大いなる宇宙の一部であるという、原始的かつ元来の状態を思い出させられその中に戻っていくという感覚。大いなるものへの帰属。大海原の真ん中で、草原の中で、砂漠で、山で感じる感覚である。

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日吉神社

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同時に、何かに対して畏怖の念を抱く瞬間でもある。日々の生活の中で忘れがちな感謝や根源的な喜びに繋がる、何か自分を超越した存在に対しての畏敬、畏怖の念。それは平和と衝撃が表裏一体になった感覚でもある。我々は技術の進歩のお陰で今や自然さえもコントロールできるような錯覚に陥っている部分もあるが、其の実、明日の我が身さえ想像できないのが実態だ。ある日突然地震が起きるやも知れず、津波が来るかもしれない。昔の人にあったであろう謙虚さが、技術や科学の進歩で失われてしまっているのだろう。つい、忘れてしまうのだ。決して磐石の安心と平和の中で生きているわけではなく、自然の中で生かされているという事実を。

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その「謙虚」さや「畏怖」を思い起こさせてくれる場所、それはすなわち、本質的な感覚への戻り、本来的に感じることが当然であるべき自然の息吹や人智を超えたものの存在を改めて感じられる場所、にほかならない気がするのだ。だからこそ人は癒された感覚になり、「元の気に戻る」という文字通りの「元気」になる。人造物と電子機器に囲まれた現代の生活の中でいつのまにか鈍ってしまい、忘れてしまった感覚を思い出す。きらびやかなネオンライトの中ではろうそくの炎が霞んでしまうように、ぎらついた人工物の前では「自然」が薄れていくのだ。その「自然」を思い出すことが出来る、それが癒されるということなのではないだろうか。逆に「自然」が薄れると、人の「気」も弱くなっていく。文字通り「不自然」な状態になっていく。それこそがまさに病であり、「病気」なのではないだろうか。

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十三湖に程近い、ここ山王坊日吉神社に足を踏み入れて感じた感覚は、正にその「戻る」という感覚であった。まさに「元気」になるような「癒」されるような感覚だ。

日吉神社

殆ど人の訪れることの無いような佇まいの境内には鬱蒼と緑が生い茂り、命に満ち溢れ、柔らかい中にも力強さが脈々と流れる。受容とも拒否とも違う。ただそこにある。その中で人はただ存在になる。ただそこにいる。それだけだ。誰も干渉しない。無視もしない。拒絶もされないかわりに歓迎もされない。しかし、そこにいるだけで体中に何かが漲ってくるのだ。何かが流れ込み、何かが戻ってゆく。何かが目覚め、何かが眠る。

日吉神社

山王造り京風二重鳥居が印象的な山王日吉神社は、十三湖北岸、相内集落の北東の山の中にある。比叡山麓の日吉大社(滋賀県大津市)より生じた神道の信仰「山王信仰」に基づいて、日吉神社から勧請を受けて祀られている神社で、全国におよそ3800社ある日吉・日枝神社のうちのひとつだ。周辺一帯は古来より霊地、聖域として付近の人々に大切にされ、また畏怖されてきたと言う。

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1982年(昭和57年)に行われた発掘調査で室町時代の遺構、遺物が発見され、同時期に十三湊一帯を支配していた安東氏との関連性がより濃厚なものとなった。山王日吉神社は安東氏が日吉大社より勧請し造り上げた神社で、土着の信仰と山王信仰を併せたようなものであったと考えられている。

山王坊日吉神社

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