武蔵野の美しい風景 秋の終わり~冬の始まりの雑木林

武蔵野の雑木林

武蔵野情景

大都会・東京と隣県である埼玉、神奈川といえば、総人口3000万人を超える世界でもトップクラスの人口密集都市。道路はアスファルトに覆われ、数多のビルや家屋がひしめき合う街の中を、電車やバスや車がひっきりなしに行き交い、老若男女、様々な人々が働き、学び、暮らしている地域です。勿論、東京とはいえ、山や自然豊かな場所はありますし、埼玉や神奈川もしかり。

しかし、東京23区内や八王子市、町田市、府中市、調布市などの大きな市や町、神奈川県の横浜市、川崎市、相模原市などの市や、埼玉県のさいたま市、川口市、川越市等といった市や町の中心部とその周辺は、いわゆる都市のイメージそのままに、場所によって多少の差はあれど、右を見ても左を見ても人と車がせわしなく交差し、木々の緑よりビルや家屋の姿が目に飛び込んでくる、いわゆる「コンクリートジャングル」的「都会の風景」が広がっています。

そんな「大都市」東京、埼玉、神奈川にまたがるエリアに、かつて「武蔵野」とよばれた広大な原野が広がっていたのをご存知でしょうか。

「武蔵野」といえば、現代では東京の都市の名前であったり、特定の地域を指す名称であったり、はたまたうどんの名前であったりしますが、その昔は広大なエリアを指す名称でした。とはいえエリアとして一定の定義はなく、文献や識者によってもその範囲は多少異なりますが、広義にはかつての「武蔵国(むさしのくに)」と呼ばれた地域、現在の東京23区や多摩地域、神奈川県の川崎や横浜の大部分と、埼玉県の幸手市、春日部市などを除いたほとんどの地域にまでまたがる広大なエリアを指します。室町時代の「太平記」には、「四方八百里に余れる武蔵野に、人馬ともに満ち満ちて」とあり、その範囲は漠然としています。

1815年(文化12年)の「武蔵野話」(斎藤鶴磯(鶴磯樵夫)著)の冒頭には「武蔵野は十郡に跨りて、西は秩父根、東は海、北は河肥(今の川越)、南は向が岡、都築ヶ原にいたるとなん、東北に筑波山、北に二荒山、赤城山、吾妻山、西北に浅間山、西南に多摩山、不二山、箱根、大山を望み(眺)、東に山を見ざるのみにて、曠々たる高原の地なり」とあり、1834年(天保5年)~1836年(天保7年)刊行の「江戸名所図会」では、「南は多摩川、北は荒川、東は隅田川、西は大嶽秩父根(たいがくちちぶね)を限りとして、多摩(たま)、橘樹(たちばな)、都筑(つづき)、荏原(えはら)、豊島(としま)、足立(あだち)、新座(にひくら)、高麗(こま)、比企(ひき)、入間(いるま)等すべて十郡に跨る。草より出て草に入る、又草の枕に旅寝の日数を忘れ・・・」と武蔵野の範囲に関して書いています。

古くは「万葉集」や「古今和歌集」「伊勢物語」「更級日記」「続古今和歌集」などにも登場し、月の名所としても知られた場所。関東平野の一部であり、江戸の西側一帯に広がっている野原。ススキや荻、ヨシ(蘆・アシ)などがうっそうと茂り、女郎花や野菊などが咲く渺茫たる草叢、それがかつての「武蔵野」の風景のイメージでしょうか。

そんな「武蔵野」の原野も時代によって変化していきます。「更級日記」の書かれた平安時代中頃には、「背丈よりも高く蘆や荻が生い茂り、馬に乗った人の姿さえ見えなかったほどであった」といいますが、中世以降、人が住みつくようになると徐々に変わっていきました。特に江戸に幕府が開かれて人口が増加すると共に、手つかずの野原に人の手が多く入るようになっていきます。

1653年(承応2年)には、庄右衛門・清右衛門の玉川兄弟が、江戸の飲料水不足の解消などの為に、多摩川の羽村で取水した水を四谷(現在の四谷四丁目交差点付近)まで全長42.74キロメートルに渡って運ぶ「玉川上水」を完成させ、1655年(承応4年)には安松金右衛門と小畠助左衛門により「玉川上水」の分水である「野火止用水」も築かれ、それらの水がやがて田畑用の水としても利用されることが許されるようになると、一帯では新田開発が一気に進んでいきました。田畑が作られ、人が住みつき、屋敷の周りには防風林が植えられ、さらに堆肥を作るための落ち葉や薪のために、木々が植えられます。そうして、「雑木林」と田畑と点在する家が溶けあった田園地帯が作られていきました。(1830年に完成した「新編武蔵風土記稿」では挿絵入りで武蔵野を詳しく説明しています。)

野火止用水野火止用水

江戸時代を通して形成されていったそんな武蔵野の景観は、人が住む場所と田畑と林、野原が見事に入り混じり、「生活と自然が密接している処」として、明治の小説家にして詩人・国木田独歩も随筆「武蔵野」の中で「美しさいひつくされず」と、その風景美を絶賛しました。

戦前まではそんな風景もそこかしこに残っていた「武蔵野」ですが、戦後の復興期を経て、宅地化、都市化が推し進められることにより、「古の原野の武蔵野~江戸期の田畑と林と野原が入り混じり生活と自然が密接している武蔵野」の景観は次第に姿を消していきました。今ではご存じの通り、その多くは宅地となり、またはビルなどが立ち並ぶ「町」「都市」へと変貌、かつての面影を残すのは、ごく限られた地域となっています。ちなみにジブリのアニメ映画「となりのトトロ」に登場する風景は、宮崎駿監督本人も長年住み続けている埼玉県所沢周辺の昭和の中頃の里山風景をモデルにしたものとか。

今日は、そんな「今もかつての武蔵野の雰囲気が残されている」限られた場所の一つで、大きな寺院の境内であったがゆえに開発の手が伸びなかった為「武蔵野の雑木林の面影の残る広大な境内林」が43ヘクタールという広いエリアで奇跡的に残され、国の天然記念物にも指定されている埼玉県新座市(にいざし)の「平林寺」の雑木林の風景をお届けしましょう。

平林寺境内

武蔵野の雑木林

武蔵野の雑木林

武蔵野の雑木林

武蔵野の雑木林

武蔵野の雑木林

武蔵野の雑木林

武蔵野の雑木林

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武蔵野の雑木林

武蔵野の雑木林

武蔵野の雑木林

武蔵野の雑木林

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