雪と氷の槍ヶ岳
最終更新日 2022年10月17日
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十月の槍ヶ岳 雪と氷の穂先へ
写真・文 JAPAN WEB MAGAZINE登山部 Tomo Ohi
凍りついた鎖をしっかりと握りながら、自身の上がっていく方向を数秒見つめる。どこに手を掛け、どこに足を乗せるか。ざっと頭の中でイメージを描いてから、雪の積もった岩肌にかけた靴の先にグッと力を入れて再び登り始めた。
雪と氷に表面が所々覆われているとはいえ、本来ならば、それほど難易度の高い登りという訳ではないのだろう。国内でも北鎌尾根や大キレット、そして「点の記」で有名な劔など、難所とされる一般ルートはまだまだある。それこそ、ジャンダルムなど、普通の登山客が足を踏み入れない場所まで含めて比較するならば、なんということはないルートなのだと思う。時間にしても30分。ハシゴも鎖もついている。小学生も登頂するくらいだ。自分を持ち上げる気力、体力と、上に行きたいという想いがあれば、「頂上に立つ」のはそれほど難しくないのだろう。そう、天候とコンディションさえ良ければ。
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やはり、問題は岩の状態だ。前日から下で降り続いていた雨は当然のように山頂付近では雪となっていたことは山荘のブログの情報で知っていた。ブログの情報がなくとも、100メートル登れば0.6度程度気温が下がることを考慮すれば上が雪であることは容易に想像できた。実際に、想像通りの光景が眼前に広がっていた、というだけの話だ。
しかし、想像通りの光景は、想定通りの難しさとはならなかった。
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山荘まで登ってくる道のりでは、「白く化粧された山肌がきれいだな」という程度であった感想も、山荘からの穂先への初めの平らな道のりにおいて、いや先行の幾人かが雪が積もる岩の状態を見て穂先への登頂を取りやめた結果降り積もった雪の上に一切の足跡がついていないという状況において、「これは、きれいだなと悠長なことは言ってられないかな」という感想に変わった。山荘への登り道の雪の積もり方と比較しても、穂先へのルートは険しさもさることながら、雪の積もり方もちょっと違っていた。場所によっては足首までずぼっと埋もれてしまうほどだ。
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そして、この雪と、鎖や梯子にこびりついた雪氷の存在が、本来ならばそれほど難しくはないはずの穂先への道のりを、少なくとも見た目には難しそうに変えていた。とりつきから、雪と氷の存在が世界に緊張感を加えていた。ごつごつとした岩に降り積もった「柔らかな」雪の存在が、一筋の「硬質な」緊張感を誘ってくる。
グローブ越しにもヒンヤリと伝わってくる、氷の張りついた鎖の冷たさ。時折ずるりと雪と共に滑る岩の表面。ハシゴの握りも脚を乗せるステップも、うっすらと雪が積もっているか、もしくは濡れるかしている。
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状況による難易度はさておいても、そもそも穂先への道のりは、例え雪と氷の存在がなくとも「高度感」それ自体は中々のものだ。滑り落ちたら、ちょっとやそっとの怪我じゃ済まないだろう。雪で濡れた靴の先が梯子にうまくかからずに、つるりと滑ったとしたならば・・・。雪がこびり付いた鎖を握ったグローブが、何かの拍子にするっと抜けたとしたならば・・・。下を見るたびに思わず背筋がぴっとする。
普段の生活の中で、ここまで「命」の瀬戸際が身近になることは中々ない。一歩先、いや数センチメートル先に「別の世界」が顔を覗かせているのだ。日頃忘れがちである「人間は生身の生き物である」ということをまざまざと気付かされる。安定だと思い込んでいるものは、一瞬で姿を変えてしまうのだ。変わらないでほしいと願っても、変わるときにはあっという間に変わってしまう。その容赦ない冷酷さの前に、人は呆然とするか、うつむくか、思考を停止させるか、諦めるか、考えないふりをするか、なかったコトにするか。
結局のところ、粛々と、淡々と、目の前のことに対処するしかない。岩の角をつかみ、足場を確認し、鎖から雪を払ってしっかりと握り、梯子のステップに登山靴の先を潜り込ませる。岩の割れ目や突先に手をかけ、三点確保・三点支持をより一層意識しながら、上へと昇っていく。周囲に雲が立ち込めているせいか、感覚的には「登っていく」よりも「昇っていく」のほうが近い。
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そうして15分ほど登っただろうか。何度目かの梯子の途中でふと斜め後ろを見ると、雲の切れ間から大喰岳~中岳方面の山並みが姿を現していた。白と黒のコントラストが美しい。荒々しさと美が一切の違和感なく同居している。
さらにその向こうに見えるのは奥穂高岳にジャンダルムだろうか。その上部に、刷毛ですっと塗ったようにうっすらと空が見えている。自分が不安定な場所にいるのも忘れ、しばし見とれてしまう。こんなマイペースなことができるのも、周りに同行者以外、他の登山者が一切いないからだろう。
絶景を思いっきり吸い込んだ後、また右手、左手、右足、左足、それぞれの位置とホールド感を意識しながらの動きに戻る。
目の前のことに集中し、命を保つことに「気」をかける。そこにおいて、もはや高所や滑落に対する不安感は消え、喜びと楽しさが心の中を支配し始める。高揚感が脳内物質を迸らせ、その脳内物質がさらに高揚感を加速させていく。緊張と興奮が多幸感へと変わり、20分ほど前には寒さと疲れでこわばっていた肉体が、ほんわり温かくなっていくのを感じる。
そうして最後の梯子に手を置き、上を見上げた瞬間。
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目に飛び込んできたのは吸い込まれそうな青空だった。朝6時にテントを出発して数時間。登りはじめは薄かった雲も、2500メートル付近を過ぎると次第に厚くなってきて、2800メートルを超えても穂先はおろか、小屋さえも見えなかった状態だったのにもかかわらず、穂先にとりついた時でさえ、上部はほぼ見えなかったにもかかわらず、最後の梯子に手をかけたら、青空が顔をのぞかせたのだ。
「雲が晴れた」のではない。見上げた部分とその狭い周囲だけ、文字通り「雲の隙間」から「青空」が顔をのぞかせていた。
その青空に向かってすっと伸びる梯子。
その光景はまさに「天国への階段」そのもの。
ツェッペリンの珠玉の名曲を口ずさみながら登るほどの「高み」には達してはいなかったが、一段一段梯子を上っていく気分は、まさに天国へ上っていく気持ち。状況的には「天国」なんてまったくシャレにもならないのだが、この数分間の劇的な天候と風景の変化が、気持ちにも圧倒的な変化を与えていた。
槍ヶ岳に登った著名人の一人に文豪・芥川龍之介がいるが、もしかすると龍之介はこの梯子を上りながら「蜘蛛の糸」の着想を得たのではないか、なんていうアイデアさえ脳裏に浮かんだほどだ。
龍之介が登った当時に梯子が設置されてあったかはともかく、この、山頂に至る最後の梯子の存在感とその光景は、自分にとって生涯忘れえぬものになるだろう。
ちなみに、登りよりもさらに危険度が増す下山時(※)、一番最初に覚悟を決めなくてはいけないのも、この山頂に設置された梯子(二本の梯子はそれぞれ上り下り専用となっている)への「とりつき」ではあったが、いずれにしても、山頂で感じた達成感と開放感と安堵感は、この二本の梯子の存在なくしては語れないのである。
(※編集部注:)一般的に、高名な登山家も一般の登山者も下山時に遭難や滑落などで命を落としているケースが多い
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「大キレット方面や他の山行で、槍ヶ岳山荘の近くを通過することはあっても、槍の穂先はもういいね。」と山頂で同行の友人たちと話したが、下に降りてきた今、強烈に穂先にまた行きたくなっているもう一人の自分がいたりもする。いや、穂先に限らない。国内外のどこの山に行った時も、毎回といっていいくらい、苦しさやしんどさ、辛さ、疲れなどから、「もう山登りは十分した」と思いつつ、家に帰って次の日にはまた行きたくなっていたりする。それはきっと酒飲みの二日酔いみたいなものだ。のど元過ぎれば熱さを忘れ、性懲りもなくまたぞろ同じことをする。それが山登りの魅力なのか、魔力なのか。こうして、頭の中で次の山行を夢想し、新たな計画を立て始めるのだ。
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山頂から降りてきた後、山荘でラーメンを食べ、一休みしてから下山開始時に撮影した穂先。
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槍ヶ岳山荘のラーメン 1200円
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槍ヶ岳中腹(標高2,000メートル付近)の紅葉の風景