火の熱さを忘れているすべての人に見て欲しい「日本の火祭り」
公開日: 2021年10月2日 | 最終更新日 2022年10月18日
凝り固まった価値観が揺るがされる瞬間
人は、とても感動した時や興奮した時、心から驚いた時の記憶は往々にして鮮明に残っていたりするものですが、そういった意味では、美しさや勇壮さ、巨大さ、スケール感などに感動、興奮し、音や光に驚き、感嘆、感激することの多い「祭り」、それも初めて見る「祭り」はとても記憶に残りやすい気がするのですが、どうでしょうか。
筆者もこれまで国内外の様々な土地を訪れ、例えばその土地の食べ物のおいしさや、風景の美しさ、自然の雄大さ、建築物の精巧さなどに感動を覚え、それなりに記憶にも残ってはいますが、やはり初めて見た「お祭り」は、殊更に鮮明な記憶として残っているものが多い気がします。中でも「夜」に見たお祭りは、その「光」や「音」の相乗効果もあってか、一際興奮、感動が大きく、どれも印象深く心に刻まれています。
例えば青森の「ねぶた祭り」や五所川原の「立佞武多」、博多の「祇園山笠」などは何年もたった今でもその熱と光と音をまざまざと思い出せるような「鮮烈」なモノでした。美しい装飾や衣装、歌や楽器の音色。人々の躍動感、町の活気。それらが混然一体となってうねり、迸るような熱気と情動があたり全体を包み込む。一瞬、「不確実な存在の深遠」へ飲み込まれていくのではないかと錯覚するほど、大きく精神を揺るがされました。
そして、そんな「ねぶた祭り」や「立佞武多」「博多祇園山笠」と同じくらい興奮、感動し、脳の襞々にしっかりと刻み込まれているのが、「火」に関連したお祭りの記憶です。電飾やレーザーなどで作りだされる人工的できらびやかな「光」も、暗闇の中ではもちろん美しいのですが、闇夜の中、薪や油、火薬などで燃え上がった「炎」の、ときに妖艶ともいえる美しい色や形状、そして匂いは、電気的な光のような眩い明るさや派手さこそないものの、耳から入ってくる燃焼音の効果も相まって、脳の奥底に眠っている古の本能がざわめくようなとても印象的なものでした。
何よりも、電飾やレーザーではほとんど感じることのない「熱」の存在感が圧倒的なのです。料理をしたり、時にはバーベキューやたき火をしたりして、「火」が熱いのはもちろん感覚的に知っているつもりです。しかし、知っているはずの火の熱さなんて、実はちっぽけなものであったのだと思い知らされるような膨大な熱量がそこにはあるのです。今更ながら、本当の「火の熱さ」に気づかされるような圧倒的エネルギー。眼前に突きつけられるのは、激情と絶望が入り乱れるような絶対的な存在です。轟然たる酸化反応。ひりひりとした緊張感。空に昇っていく煙。熱いのに冷や汗が出るような緊迫感。相対峙したその瞬間、ほんの一瞬でも「戦う」なんていうことに、全く考えも及ばない、衝撃的なまでの力の差。
哀しいかな、普段大きなトラブルもなく満ち足りている時には中々感じることのない「生命」の存在を、「生きていること」のありがたさを、「命が脅かされる危険」を目の前にして人は初めて気が付くのです。
どこか抽象的な概念だと思っていた「死」という「絶対的存在」が、数メートル先に口を開けているのを目撃する段に及んでようやく、「生」という形而上的価値観の脆さと儚さに気づかされるのです。それは「”死”を意識することで”生”を大切にしましょう」なんていう、ありきたりの優等生的標語のような教訓ではありません。否応なく「生」を意識せざるを得ないほどに「命」を脅かされる強烈な熱さなのです。直情的で飾りも何もない「提示」なのです。もしあなたが、贅沢にも「幸せすぎて逆に毎日を退屈に感じていたりする」ならば、一度この「炎」の熱さを間近で体験してみるのもいいかもしれません。
「火は熱い」のは当たり前ですが、その当たり前のことが意外と日々の暮らしの中では、特に都市部に住んでいると忘れがちです。そんな現代人に是非見て貰いたい日本の「火の祭り」、日本の各地で行われている「火」に関連するお祭りから、特におすすめのものをご紹介しましょう。
少しずつ終息の気配を垣間見せながらも、依然として続くコロナの影響により、本年度の開催も延期・中止となったものが殆どですが、コロナが収束した暁(願わくば来年)には、是非とも一度足を運んでみてはいかがでしょうか。どれほどの精細な映像であっても、現代の技術ではまだまだ伝えることのできない圧倒的な「熱」を、その場で体感してみて下さいね。
吉田の火祭り
山梨県の富士吉田市で夏の終わりに行われる「吉田の火祭り」。「日本三奇祭」の一つにも挙げられているこの祭りは、山梨側の富士登山・富士登拝の拠点である北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社の秋祭りであると共に、富士講の人々の富士山登拝の山じまいを意味するお祭り。各地で行われている「火」に関連する祭りは歴史と伝統があるものが少なくないですが、この「火の祭り」も江戸時代の文献にも記載されている由緒あるお祭り。「町中が火の海」とも表現される、夜の闇の中、無数の巨大な松明に火がともされ、ずらりと通りに並ぶ様は圧巻の一言です。
南部の火祭り
山梨の南部町で夏(8月15日)に行なわれる「南部の火祭り」は、巨大な大松明と、火のついた松明を高所目がけて投げ入れる「投げ松明」が特徴的な火の祭り。盆の送り火と川供養、および稲を荒らす害虫から守る「虫送り」の意味などが込められているという、江戸時代から行われている伝統ある祭りです。川原に並べられた見上げるほどの大きさの松明が轟々と燃える様は、改めて火の美しさと怖さを皮膚で感じさせられるもの。クライマックスでは3000発の花火も打ち上げられます。
富士山御神火まつり
静岡県の富士宮市で毎年8月の第一土曜日に行われる「富士山御神火まつり」は、富士山頂に鎮座する富士山本宮浅間大社の奥宮で採火された炎「御神火」を、神輿に据え付けられた松明に灯して街中を練り歩き、湧玉池の水で鎮火するという祭り。人が担いでいる神輿のすぐ上で燃え盛る火は、(神輿や担ぎ手の安全の為も有って)他の火祭りと比較するとそれほど巨大なものではないために、その「熱さ」こそ離れてみている観客には直接伝わってこないものの、担ぎ手や観客が放つ熱量が周囲全体に充満しているのも相まって、別の迫力と勇壮さがあり印象深い祭りです。
奉納煙火
長野県のとある神社で行われる奉納煙火は、三河地方の流れを組むといわれる火の祭り。祭りに参加している地元の人々のみならず、それを見に来ている観客にまで火の粉が容赦なく降り注ぐ、迫力の祭りです。電気的な灯りが少なく、火花と炎の明るさで照らし出された夜の境内や人々の表情。夜空に向かって伸びる巨木。闇の怖さ、火の熱さ。夜がきちんと暗い「夜」であった時代、人々の感覚は現代の人よりも正確に研ぎ澄まされ、自然を敬い畏怖し、謙虚さと感謝の念を多くの人が兼ね備えていたのだろうな、と思わず感じてしまう祭りです。
豊川の手筒花火
愛知県の豊橋市にある吉田神社を発祥とするといわれる手筒花火は、室町時代末期からの歴史を持つと言われる由緒あるもの。愛知県東三河地方や静岡県の遠州地方で伝統的に行われています。竹筒に火薬を詰めて自ら作り上げた吹き上げ式の手筒花火を両手で抱え、大きなものだと十数メートルにもなるという火柱の熱さに耐えながら、最後の爆裂音が鳴るまで持ち続ける地元の男達の勇気と格好よさ。遠くから見ているだけでも感じる恐怖と熱。「この地の男として生まれてこなくてよかった・・・」と安どしてしまう観客が多いのではないかと思ってしまう程にものすごい迫力です。