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投入堂

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三徳山三佛寺 宙に浮くお堂

初めてそこに辿りついた人たちは、感動や達成感とともに、大抵誰もが似た様な感想を抱くだろう。「一体、どうやって?」「一体、何のためにここに?」と。

投入堂
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道なき道を進み、土や岩の崖を根っこや鎖をたよりに這い蹲るようにして登り、落ちたらちょっとの怪我ではすまないような崖沿いを抜け、そうして歩き続けて門から40~50分程だろうか。突然目に飛び込んでくる切り立った崖の中腹に建てられたお堂。美しいそりの屋根を持つ古色蒼然とした木造の建築物だ。正式名称を「三徳山三佛寺奥院」、通称を「投入堂」という。

ぱっと見ると宙に浮いているようにも見えるそのお堂、崖をくりぬいた、平らなところなどまったくない箇所に、写真のように長さの違う材木で絶妙なバランスで土台を作り、その上に建てられている。平安時代末期に建てられたと言われる、国宝にも指定されている建物だ。

三徳山三佛寺「投入堂」の魅力をフルスクリーンで見る

投入堂

断崖絶壁の中腹に建つ投入堂

失われた技

取材であちらこちらを訪ねていると、時折、人の為す「業」と「技」と「発想」とには驚かされる。自然の多様性にはついぞ敵わないにしても、人の為した事柄に、目を見張らされ、心を止められ、思考が波打つ。圧倒され、惹きつけられ、驚嘆させられ、呆然とさせられる。一人の普通の人間の発想は、本来的にはたかが知れている。一日24時間365日。全ての人に平等に与えられた時間の中で、習得できること、経験できること、創造できることなど、多少の差はあれ、似たり寄ったりなのかもしれない。例えば地球の歴史に比べたら、それは塵が舞う程にもならないだろう。

それでも。色々な偶然と様々な必然で、ときに1+1は百になり、1×1が、千になる。99の過去の知識の集積に、1の天才的発想が加わった時、それは単に100にはならず、例えば1000の知識の集積さえも超えてしまう。そして、それらは素晴らしき建築物となり、音や踊り、芸となり、技術となり、作品となる。

その前で人はただ驚嘆し、感心し、ため息をつき、呆然とし、感動し、動きを止める。息をすることすら忘れてしまうときもあるだろう。

通常の人ではとてもではないが到達できない世界。普通の人では思いもつかない意匠、造形。「天才的」なひらめき。思いつき。アイデア。工夫。英知。それは天才の天才によるものかもしれないし、天才の努力によるものかもしれない。自然的能力かもしれない。宗教で言うところの「神」の存在ゆえかも知れないし、何か別の「超存在」ゆえかもしれない。脳内の電気的ショートによる偶然かもしれないし、はたまた宇宙の集合意識の波紋なのかもしれない。ただの雨粒かもしれない。しかし、息を呑むような素晴らしいもの、不思議なものに出会ったときに、通常の人の努力や、時間や、学習ではどうにもならぬ世界が、存在が、この世には確かにある気がするのだ。特に、現代科学の呪縛の中で濁ってしまった私達の目には映る事の無い、普遍的自然的存在がこの世界にはあるような気がしてならないのだ。

それは例えば、鬱蒼と茂る木々の中で、一人静かに佇んでいる時に感じるもの。それは例えば、光差し込む海の中で、一人流れに揺られながら、仰向けに海水越しの空を見上げた時に感じるもの。それは五感に頼り切って生きている文明生活の中では消えてしまっているもの。水は水の中から出ても水よりも瑞々しくなる事は無い。今の科学で検出できないもの、見えないもの、わからないものが、すなわち存在しない、というわけでは決して無い。

投入堂投入堂

「オーパーツ」という言葉をご存知だろうか。過去の文明社会の痕跡から発見された品々の中に、それが発見された場所や時代にそぐわないものが時折混じっている。その中には、現代の我々の科学技術でもってしても中々作りえないものが、混じっていることがあるのだ。それらを総称して「オーパーツ」と呼ぶ。英語のOut of place artifact の頭文字だ。この地球上にはあまた存在するオーパーツの中でも、例えば、コスタリカの真球に近い石玉やアステカ文明の水晶を削って作られたという頭蓋骨。現代の加工技術でも難しいといわれる精巧なものだ。これらは当然、発見当時から科学者を始めとする様々な人々の様々な推論、推測を呼ぶのだが、未だに解明されていないものも多い。(偽物と判明したものもある。)

しかし、ここに一つ、根本的な命題がある。「現代の科学技術」という言葉と、盲目的にそれに振り回されている私達現代人の図式だ。科学は、人類の知識の集積だから、過去よりも現代、現代よりも未来の方が優れている、というのが暗黙の了解であり、当然であるという大前提なのだが、そもそも本当にそうなのだろうか?過去の人々の発想と知識で生み出された過去の技術は、例えば生活スタイルが自然と近い分だけ、今とは別の方向に、そして今よりもはるかに優れていたのかもしれないのではないか。しかし、そうして生み出された技術が、必ずしも継承されていくとは限らない。伝統工芸の世界でも、継承者がいないことで先人達が編み出してきた素晴らしい技術が次々と失われている。加工技術や建築技術もそうであったとしても何ら不思議はないではないか。失われてしまったものは、始めからなかったものと同じ事となる。かくして、時系列的に、過去から未来に向って、科学は進歩しているものと人々は思い込む。

投入堂投入堂

さて、投入堂である。現代の建築技術でもってしても一筋縄ではいかないこの断崖絶壁に建てられた建物、その建築法は未だ謎に包まれている。伝承では三徳山の開山は706年(慶雲3年)。伝説的修験者で、山岳修行の祖とも言われる役行者(えんのぎょうじゃ)が修験道の行場として開いたとされ、その後、全国各地で様々な寺院を開山したと伝えられる慈覚大師円仁により849年(嘉祥2年)に三仏(釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来)が安置されたとされている。これが三徳山三仏寺と呼ばれるゆえんだ。

しかし、そもそも、這うようにしなければ登って来られないようなこんな山の中に、一体なぜこのようなものを、しかもこんな険しい場所に建てようと思ったのか。「投入堂」は、伝説では、空も飛んだという役行者(えんのぎょうじゃ)が麓で組み立てたお堂を法力で投入れたとされている。1000年以上の昔から山岳信仰の場として修行僧が篭ったという三徳山の清々しい空気を吸いながら、ようやく辿りついた山中でぼんやり佇んでまじまじと「投入堂」を見ていると、それもまんざら嘘ではないのではないかという気さえしてくるから不思議だ。「科学技術」的見地からは、それは不可能で、荒唐無稽で、在り得ないこと。しかし、なんとなくそんなこともあっていいのではないかと思ってしまう。それはただの感傷的なロマンチシズムではない。寧ろ、それが可能だったらどうだろう、いや、可能だったのかもしれないという想いだ。または、そのような能力を持ち合わせていたのにいつのまにか忘れてしまったなくしてしまったという、ある部分において絶対的に退化してしまったのにもかかわらず、それに気づかない、気づこうとしない私達現代人への警句めいたメッセージなのではないか、とも思えるのだ。投入堂現代人ならややもすれば鼻で笑ってしまうような常識外の力。能力。そのような力が決して突拍子もない想像上の空想的超絶能力なのではなく、かつて私達も持っていたかもしれないささやかな能力、自然とコミュニケーションをとったり、明日の天気を肌で感じたり、そんな能力の延長線上にあった、例えば自然と一体になる能力を身に着けた人々の中で、ある一定の修行を積んだ人ならば、為し得ることも不可能ではなかったのではないだろうかと思えるような力、そんなものだったのではないかとさえ思えてしまうのだ。そうして或る日、そのような力を得た人々は、例えば人類の至宝とも呼べるものを作り出す。天才と呼ばれ、超人と呼ばれ、聖人と呼ばれるような人が、後の世に残るものを創造する。それらはやがて、長い時を経て、本来の意味は忘れ去られるが、それでも後世の人々に何かを伝え、そして啓蒙するのかもしれない。投入堂を見ているとそんな気持ちにさえなるのだ。

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文殊堂からの眺め

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「なぜ」「どうして」。私達はつい、理由を考えたがる。意味を見つけたがる。しかし、物事の全てに理由があるわけでは無いのだ。仮にあったとしても、日常的な感覚で判断できる世界ではない。少なくとも、最先端と信じている文明の光で目が濁ってしまった私達普通の人間にはもう見えないものなのかもしれない。

でも、きっとそれは想像以上にシンプルで、想像以上に複雑で、想像以上に合理的で、想像以上にそばにある。変わってしまったのは世界ではなく、自分なのかもしれない。便利さに、豊かさに、楽しさに。何かが何処かに引っかかっていると感じながらも、楽なほうに身をゆだねる。何かが時々軋み、何かが時々信号を発しても。それでも私達はきっと理解しないのだ。理解しないのみならず、存在自体に気付きもしない。機会やきっかけや答えはそこに転がっているのかもしれないのに、見ていても目には映らない。

時の流れるままに流されている限り、それを心で見ようとしない限り、きっと何も変わらないのだろう。

「投入堂」の持つ不思議で厳かな雰囲気。それは見るものをして、何かを考えさせずにはおかない。一帯に満ちる言葉を越えた何か。それは画像や映像では中々伝わってこない空気感を伴った直接的感覚だ。科学に包まれて暮らす現代の私達がどこかに置き忘れてきてしまった皮膚感だ。それは危機的な状況にある今の私達にこそ、必要な何かを伝えるものなのかもしれない。

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滑りやすい靴を履いていると、山門で草履を貸し出されるのだが、草履は地面との食いつきは悪くなくても、足との一体感は無い。履き慣れている人ならいざ知らず、滑ってしまってかえって危ない。山登りに慣れた人ならば、なんと言うことのない道のりだが、垂直に近い登りもあるので、山道に慣れていない方は底のしっかりした靴を履いていくことをくれぐれもおススメする。本格的な登山靴である必要は無い(登山道の木の根を傷めるので、本格的な登山靴は場合によっては断られることも)が、せめて、足裏にしっかりと滑り止めの溝が刻まれ、足首まであるようなハイキングシューズのようなものが望ましい(靴底にスパイクが付いているものは禁止されている)。手にも、滑り止めのついた軍手のようなものがあると便利だ。

また服装についても、山自体が修験の霊場である為にスカートは厳禁。道のりも厳しいため、登山に不適当と判断される服装は入山を拒否されることもある。滑落事故も発生しているので、十分に留意したい。

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鎖を頼りに登らなければならない場所も。

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三徳山三佛寺「投入堂」。鳥取県の山の中にあるこの「不思議」なお堂を前にして、あなたなら何を思うだろうか。

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山の麓の遙拝所から望む投入堂

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Japan Web Magazine 編集部

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