日本三奇祭 吉田の火祭
公開日: 2015年8月26日 | 最終更新日 2023年5月19日
道の真ん中に据え付けられた大松明が天まで焦がせといわんばかりに赤々と燃え上がり、人々はその両脇を「熱」を感じながら行き交う。この時期が来ると人々は夏の終わりを感じ、その年の富士山登山のシーズンが終わりゆくことを肌で認識する。
毎年8月26日、27日に行われる吉田の火祭は、日本三奇祭の一つにも数えられる祭り。北口本宮冨士浅間神社と諏訪明神社の祭礼として、富士山登拝の山仕舞いの意味合いを持って行われるもので、期間中には、金鳥居から北口本宮冨士浅間神社にかけての道沿いに、大小80本近くに及ぶ松明が並び、町全体が火の海に飲み込まれたようになる、荘厳で迫力ある祭りだ。富士登山が現在のように身近でなかった時代(約4~500年前)から行われていたといわれる祭礼で、富士山を崇め、信仰する人々により、大切に守られてきた。
祭礼当日は、数多くの露店も立ち、にぎやかで楽しい雰囲気もあるが、あくまで富士山信仰を根源にした神聖な祭りであり、本殿祭、御動座祭、発輿祭、神輿の渡御、御旅所着輿祭と、神事が粛々と進められる。火祭にあたっては、清浄であることが求められ、当地では特に「死のケガレ」に対しては厳しく対処されるという。身内に不幸があることを「ブク(服)がかかる」といい、ブクの家の者は、火祭の神輿や松明の火を見ることさえも避けなければならないといわれている。火祭の期間中には、町の外に出て、泊まりがけで親類縁者の家に出かけるという徹底ぶりだ。このことからも、いかにこの祭りが神聖で、重要な意味をもっているかが分かるだろう。
吉田の火祭にお出かけになる際は、それらの事を頭の片隅に入れて、足を運んでみてほしい。地元の人々や観光客の話し声や笑顔がそこかしこに弾けている中にも、神聖なる「神性」がそこかしこに明滅しているのを感じることができるだろう。
「火」という、人間にとって最も大切なものの一つであり、かつ神に、そして自然に近い存在を介して、日頃あまり体感することのない「熱」を全身で感じることができる。この「熱」こそ、原始的かつ恒常的な「自然の霊性」であり、我々が忘れてはいけない大切な何かの、或る「現れ」のような気もするのだが、皆さんはどう思われるだろうか。