善光寺

善光寺 「遠くとも 一度は詣れ 善光寺」

暗闇と光

「真の闇」というものに初めて接したのは、10代の終わり、夏の沖縄を旅した時のことだった。現地の人の案内で「ガマ」と呼ばれる洞窟に行った。戦争中に、戦禍を被り家を追われた人々が逃げ込んで暮らしていたというところだ。入り口の狭さとは裏腹に内部は予想以上に広かったが、地面も壁もごつごつとしていてどこにも平らな場所などない。空気はじめっと重く澱んで蒸し暑く、およそ人が快適に生活を営める場所ではなかった。そのような場所に逃げ込んで生活しなくてはならなかった当時の人々の気持ちを想い、状況を思い浮かべ、少なからぬ衝撃を覚えた。

衛生面でも劣悪であったろう。個人のプライバシーなど当然あるわけもない。手榴弾を投げ込まれたり、火炎放射器を浴びせられる。催涙ガス、黄燐弾を打ち込まれる。洞窟の内外部で負傷した人々の傷が化膿して発せられた匂いと排泄物やその他の匂いが充満し、洞窟内の状況は凄惨をきわめたという。集団自決、泣き叫ぶ乳幼児の虐殺、食料その他の略奪。内と外で繰り広げられる殺戮。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図がそこにはあった。

呆然と話を聞きながら、その光景はフラッシュバックのように強烈に脳裏に浮かび、そして消えていった。あまりの事に意識は朦朧となり、心は冷徹に打ち固まる。気が遠くなる思いがしながらも、もう片方の耳は、水のしたたるようなピチョンピチョンという音を聞いていた。一定のリズムで繰り返すその音を、聴神経がとらえて離さなかった。ぼわーっと懐中電灯で照らされたガマの内部は、ひっそりとしていて、懐中電灯の光の届かない数メートル先には、不気味な暗闇が口をあけていた。

「さ、一度ライトを消してみましょうね」一通り説明をしてくれた知人の知人であるウチナンチュ(沖縄の人)の彼が優しい声でおもむろにそう言った。灯されていた懐中電灯が消えてゆく。光のボリュームを絞るように徐々に明るさは失われてゆき、最後の一つが消された直後、周囲を全くの暗闇が包み込んだ。何も見えない。目を開けても目を閉じてもそこにはただ暗闇があった。漆黒の世界が茫漠と広がっていた。そこはかとなく湧き上がってくる不安感。数メートル先はおろか、数センチ先さえ見えはしない。ごつごつとした地面を掴む足は、一歩前にその歩みを進めることすら出来ず、焦燥感を抱いたままその場に佇むしかない。恐る恐る延ばした手は力なく空を切る。全てが音もなく、無限に続いていく闇に、飲み込まれてしまいそうだった。光のない世界の心許なさを知った瞬間だった。こんな暗闇の中で、死の恐怖に怯えながら人々は時間を過ごしていた。あまりにも理不尽な現実、飢えと乾き、病と怪我、降り注ぐ砲弾と絶え間なく続く轟音。およそ考えられる全ての壮絶なる責め苦の中で、人々は何ヶ月も過ごしていたという。衝撃は加速した。地獄は内部にある。暗闇はすぐ隣にあった。

善光寺
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遠くとも 一度は詣れ 善光寺

信州長野にある善光寺は、西暦644年創建の古刹。一生に一度お参りすれば極楽浄土が約束されるとも伝えられ、古くから大名や庶民に信仰されてきた。今の長野市は元々善光寺の門前町であり、その発達と発展の歴史や規模、例えば仁王門から境内に至るまでのお土産物や食事処、宿坊の数の多さなどから見ても、近隣諸国はおろか全国から善光寺に詣でる参拝客のいかに多かったかを垣間見ることができるだろう。江戸時代末期には年間の参拝客は20万人以上にのぼったという。戦火などによる十数度の火事で本堂が焼失したり(今の本堂は1707年に再建されたもの)、戦国時代の戦乱で境内が荒廃し、寺地そのものが流転の憂き目に遭ったりもしているが、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康ら各有力大名の力によって岐阜や京、尾張を点々とした後、1598年現在の地に戻ってきた。江戸時代には、「お伊勢参り」で東海道を西に向かい、江戸に戻る際には中山道を使い、「善光寺参り」をして帰るのが一般的であったという。

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その善光寺の本堂内、「瑠璃壇」床下の回廊を巡る「お戒壇巡り」と呼ばれるものがある。

善光寺お戒壇巡り

本堂右手奥にある急な階段を下りていくと、そこには暗闇が広がっている。一歩一歩歩んでゆくほどに、暗さは徐々に増していく。十歩ほど歩くと、最早手で壁を触らずしては歩けなくなる。そこは全くの暗闇である。まさに「一寸先は闇」。これっぽっちも見えはしない。何千何万もの人々の手の摩擦で磨かれたのだろう、手に触れる木造の壁はすべすべで、ひんやりと心地よくもあるのだが、それこそが暗闇の中で唯一の行動指標になるのである。自分の進むべき方向が右なのか、左なのか、はたまた上なのか、下なのか。目では何も見えはしない。壁だけが行く手を示してくれるのだ。その闇の濃さは、暗さに限って言うならば、沖縄のガマで体感したものと同質のものであった。

この「お戒壇巡り」、ご本尊と繋がっているという回廊中程に懸かる「極楽の錠前」に触れ、秘仏のご本尊と結縁(けちえん)を果たすことによって、往生の際に迎えに来て頂けるという約束を貰う道場であるという。全くの「暗闇」は、この世を無知で生きそして無知のまま死んでいくことへのメタフィジカルな示唆なのか。それとも心理的効果を高めるための視覚環境を利用した方法論なのか。多くの人々が、回廊をめぐり終えて、出口の階段にたどり着いたときに、なんともいえぬ安堵感を感じるという。中には仏様の存在をさえはっきり感じる人もいるという。対比的な方法で光に気がつかせる、それはある意味万人にわかりやすい教えなのかもしれない。江戸期の日本は識字率40~60%。武士においてはほぼ100%とも言われる当時の世界でもトップクラスの識字率であったと研究者は言う。しかしながら、農村部でのそれは20%を下回っていたという説もあり、誰しもが字を読み書きできた訳ではないというのは確かなようだ。江戸期に善光寺に詣でた多くの老若男女の中にも、文字を読み書きしないものも多く混じっていたであろうことは想像に難くない。そんな中で、文字や言葉による教えではなく、環境でもって体感させるというのは実に手っ取り早くわかりやすい方法であろう。今ほどに光が溢れてはいなかった昔の夜も、星明りや月明かりで真の闇夜ではなかったろう。そんな中、「全くの暗闇」を体感するということは、自己に向き合うことや謙虚さに気がつかせることにもなり、仏教的に見ても何かしらの教えになろう。我々は普段の生活において、本当に大切なことに何も気がついていないのかも知れない。光は虹彩に入っても、心には何も届かず、目で見ているようで、物事の本質は何も見てはいないのかも知れない。光に惑わされて、光の原点を忘れてしまう。感謝の心を忘れ、己が利益の為に動きがちになる。100人のうち一人でも、そんなことに、ほんの少しだけ気がつくのであれば、「極楽往生のご利益」という謳い文句で人々を導きいれながらも、その暗闇の奥に「教え」というメッセージを隠した「お戒壇巡り」の発案者の意図は成功なのではないか、そう思ったりもするのである。

とはいえ勿論、「極楽の錠前」に触れることによって果たされるという結縁を、元より否定するものではない。人が何かを「信ずる」ことによって生まれるもの、または授けられるものは、数多の例を挙げるまでもなく、素晴らしいものになり得るからだ。

善光寺

「全くの暗闇」の隣にある地獄と極楽浄土。対照的でありながら、ある意味これほどまでに「人生」を具現化しているものもないのかも知れない。片方は天然の暗闇で片方は人工の暗闇。当然の事ながら、望まずして暗闇で生活せざるを得なかったことと、安全な状況下で擬似的暗闇を体験することを比較することなど出来ない。状況があまりにも違いすぎるのは明白だし、そもそもが比ぶべくもない。しかしながら、そこに共通するのは、「真の暗闇」に置かれた時の人間の心だ。周囲に光がなくとも、きっと心に光を灯すことはできる。暗闇も地獄も人は自身で作り出しているのかも知れぬ。ならば、光も極楽浄土も、自身の心次第なのではないだろうか。環境は一瞬で変わらなくとも、心のあり方で感覚を変えることは出来る。心に真の光あらば、地獄の中でさえ極楽浄土を見ることも出来るだろう。

智慧なくして「人が生きる」ということは、まさに「無明」なのであろう。その時々に自分の身に起こった出来事に対して、人は出来うる限りの方法で対処していくしかない。それは必ずしも常に光の道ではない。どこかがおかしいと思っても、自分に周囲に言い訳をし、行為を正当化してゆく。「善」の光を持たぬ時、人は騙しあい、奪い合い、時に殺しあう。人の歴史とは、ある側面においては「愚」の塊なのかも知れぬ。瞬きをするように、開いたり閉じたりの繰り返しだ。そこに真の智慧なくば、欲望と要望と絶望と願望で手を振り回しながら、前にかがむだけだ。穴を掘っていくだけだ。闇の中に光があろうとも、目を閉じてその光を自ら消してしまう。欲望には限りがなく、心を容易に踏みにじる。この世は、悪ばかりではないが善ばかりでもない。光を飲み込む暗闇があっても、暗闇を飲み込む光はあるのか。やがて来るであろう大きな衝撃に小さく囚われ、来ないかも知れぬ小さな安らぎに大きな期待を抱き続ける。道の向こうにあるかも知れぬぼんやりとした光に気がつかぬ限り、渡ることは出来ない。目を瞑ったまま光を見ようとしても、見えはしないのだ。目を開いていてもそこにある光が見えないのだから。

暗闇は目の前にあるのではない。あるとするならば、それは心の中にある。理不尽と不条理の連続でも、それこそが生きるということならば、わざわざ暗闇を作り出す必要はないのだ。光は隣にあるのだから。どうしようもない力に流されてしまっても、強さを失わない人も居る。「力」だけが強さではない。本当の強さは心にある。熾烈を極めた沖縄戦でも、利己的に流されていく人がいる一方で、極限の状態にあっても他者の心配をすることが出来た人々も少なからずいたという。それらのエピソードは、「人の強さとは自分の強さをただ誇示することではない。本当の強さとは、生きるか死ぬかの極限の状態にあってなお他者の事を考え、思いやることが出来るということ」だということを教えてくれる。視覚の光は奪えても、心の光を盗むことは出来ないのだ。

「生きる」とは何なのか。そして「死ぬる」とは何なのか。善光寺の暗闇の回廊が、ひんやりした木の感触が、そっと何かを囁いている。何も見えない「真の闇」と「輝ける光」について。心と光のない世界について。そして全てを包む「善の光」について。

本堂を出てふと空を見上げたら、青空の中に白い雲がのんびり浮かんでいる。光うららかな冬の午後、数羽の鳩が大空へと羽ばたいていった。

善光寺善光寺
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善光寺前立本尊御開帳

善光寺は2015年春、特別な時を迎える。七年に一度(丑年と未年・・・御開帳の年を一年目と数えるので実際には六年に一度になる)の盛儀、前立本尊の御開帳が行われるのだ。

善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」は住職でさえその姿を拝むことは出来ないという「絶対秘仏」。前立本尊とはその秘仏である本尊の代わりに鎌倉時代に作られたものだ。この国の重要文化財にも指定されている前立本尊は通常本堂脇の宝庫に安置されているのだが、この御開帳の期間のみ拝することが出来るのである。

前立本尊の指に結ばれた金色の糸は、五色の善の綱となり、それは白い紐となって本堂の前に建てられた高さ約10メートルの回向柱の上部三分の一あたりに結ばれる。この回向柱に触れることは、前立本尊に触れることと同じであり、同様のご利益を得られ、仏様と直接のご縁を結ぶことができるといわれている。平成十五年(2003年)の御開帳時には実に628万人もの人々が参拝したといわれるこの善光寺の前立本尊御開帳盛儀。平成二十七年の御開帳期間は4月5日(日)から5月31日(日)までのおよそ二ヶ月間。なお本堂に前立本尊を安置する「前立本尊御遷座式」は4月4日(土)午後三時から行われる。

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善の文字の1・2画目、光の文字の2・3画目にあたる点が鳩がとまっているように見えるため鳩文字の額といわれる善光寺山門の額。大きさは畳三畳分もある。

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