伊勢神宮

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日本随一の聖地

この世の中にはあきらかに我々の想像を大きく超えた世界がある。普通の生活をしていたなら、遭遇することのない世界。ありていに言えば、広大で無辺、巨大で幽玄で神秘的なもの。果てしないスケールで続く観念を超えた四海。または、どこまでも透明で穏やかな地。想像を超える程に静かで美しくて静謐なワールド。そこに佇んでいるだけで、魂が純化されるような清冽至純な世界。

この地もそんな場所である。物理的に巨大だとかそういう意味ではなく、精神的に、感覚的になにかがずば抜けている。何かとてつもなく透明で清浄なのだ。

所は三重県伊勢市。「伊勢神宮」・・・いわずとしれた神道最高位の社にして、日本最大の聖地だ。古来より多くの人々に崇敬されてきたこの場所は、江戸時代、「お伊勢参り」として皇族貴族や大名武家から庶民に至るまで、一生に一度は詣でたいと言われ、ご禁制であった「抜け参り」をしてまで参詣する人が後を立たなかったと伝えられるほど隆盛を極めた。現在も年間700万人もの人々が全国各地から参詣にやってくる神社である。

  
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朝6時の伊勢神宮は、清々しい空気に満ちていた。前夜の雨も夜半過ぎにはあがり、つい先だってまで燃えるような朝焼けを見ていたのだ。何も知らずに、カーナビで適当に探し当てた二見の海岸である。二見には二見興玉神社と呼ばれる神社がある。浅学ゆえに知らなかっただけなのだが、そこは伊勢神宮に詣でる人々が、禊を行う場所として大切な所であった。

早朝の伊勢神宮の駐車場はがら空きで、明るみ始めた空の下、軽やかに空気が鳴いていた。駐車場のすぐ目の前には伊勢神宮境内の入り口である宇治橋。否応なしに、背筋は伸び、精神の端が緊張する。宇治橋を渡りながら、この空気の清浄さが、早朝のためではないことに気がつかされる。一歩一歩歩みを進めるごとに、空気感が変わってゆくのである。

「伊勢神宮」・・・一般に呼ばれるこの呼び名は通称で、正式名称を「神宮」という。「神宮」、その二文字のみ。唯一無二の存在感がその名前にも現れる。創建は大変古く、古事記や日本書紀には紀元前70年頃の垂仁天皇の御世に今の宇治橋のかかる五十鈴川ほとりにおいて最初に祀られたのが創始と記されている。偶然か必然か、日本の「聖地」「霊場」と呼ばれる多くの場所と同じく、伊勢神宮も「中央構造線」上にある。(中央構造線については幣立神宮の記事に詳しく記載。)

生命体になんらかの影響を与えるといわれているこの中央構造線と聖地の関係。しかし、それはあくまで「科学」の話。実際に感じるのは科学や理屈を超えた世界。「中央構造線」の存在を知らずとも、凛とした清浄な空気に境内が包まれているのを感じる。一般的に、神域、聖域といわれる場所には明らかに清浄で質の違う空気が張り詰めている。それと同質の、清浄で高貴な空気が「神宮」境内と周辺一面には漂っていた。(科学的にいう「中央構造線」の存在を知ったのは後の話である。

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橋を渡って右手に折れ、暫らく歩くと手水舎がある。そこで手と口を漱いだ後さらに進むと、そこは先ほど渡った五十鈴川のほとり。そこも禊の場である。なんとも言えぬ美しさと清らかさに包まれている空間。なんとはなしに佇んでいると、俄かにあたりがざわめいた。ふと目をやると、白の神官装束に烏帽子をかぶり浅沓(あさぐつ)を履いた正装に身を包んだ神官たちが、こちらにやってくるのが目に入った。そばにいた人に聞くところによると、その日は年間千数百回にわたって行われている様々な祭事の中でも最も重要な祭事の一つ新嘗祭(にいなめさい・しんじょうさい)が行われるとのこと。新嘗祭というのはその年に実った新穀を神にささげる儀式の事で聖寿の長久・国家の隆昌・国民の平安を祈念するという。

     
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粛々と進む厳かな儀式を一通り拝見した後、神宮のご祭神の御座す正宮へと足を運ぶ。途中参道には、すっと天にむかって伸びる何本もの杉の巨木があり、それらの存在が辺り一面の空気をなお一層のこと崇高なものへと変化(へんげ)させていくのである。

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そんな杉の巨木の脇をぬけて突き当たりを左に見るとその階段の上が正宮となる。透明な空気はそこに到ってさらに透明度を増し、我が身の存在が薄化してしまったと感ずるほどに、崇高で森厳なる空気があたりに満ち満ちている。それは階段を上ってゆくごとにさらに増していくのである。決して威圧的排他的というわけではないが、かといって親しく近づきになれる気安さというものでもない。存在感がある。敬虔で素直な気持ちになる感覚だ。受け入れられるというような感じもある。何かこう「自然」なのである。「崇高な自然」といった方が近いだろうか。圧倒的純粋な神性とおおらかな母性の共存。不敬な事を仕出かしたら罰があたるといったような現世的な発想ではない。なんというのだろう、むしろそんなことさえも意に介さないであろう大いなる存在の前で、ただただ我が身の矮小さに気付く、生物の中の一存在に過ぎないという事実にすうっと気付かされる。それは決して卑屈的な自己卑下というものではない。むしろ大仰に言うならば、「素直に大いなる存在の中に還る」といったようなそんな感覚なのだ。勿論、これは多分に抽象的表現で、人はそれぞれ個人差もあるだろうし、二見興玉神社以来、いやこの数日間の高野山金剛峯寺から始まり、熊野三大社を経て、ここまで辿りついた、そんな一大巡礼にも近い旅の最終地におけるいささかの感傷も入り混じった感慨であったことも否めない。そう、ちょうどスペインの巡礼の道「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」を歩きとおした巡礼者が感じるであろう想いのように。(余談だが「世界でも「熊野古道」と「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」のただ二つだけが世界遺産に登録されている。」)

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「自然」とは「本来の姿そのままあること」なのではないだろうか。物事は変質していく。それは当然の事だ。この世は無常なのである。永遠に同じものなど一つもない。それでも私達は永遠を願う。頭で無常を理解しようとしていても、楽しい時間はいつまでも続いて欲しいと思い、若さはいつまでも続いて欲しいと願い、無常とは反対ばかりの事柄が頭をかすめるのだ。無常に逆らい、永遠の尻尾を掴もうとする。そうしているうちに、いつのまにか自然が自然でなくなっていってしまう。自分の内も外も、本来の状態から少しずつずれてゆく。特に大都会の中の暮らしでは、緑や水を目にする機会も少なく、身体も心もどこか何かが足りないような何かが少しおかしいような、そんな状態になりがちだ。機械に囲まれ、電磁波を浴び続け、人工光に身をさらし続ける。そうしていつのまにか「不自然」になっていく。

無性に食べたくなるものは、体が栄養的に必要としているものである場合も多いという。日々の生活の中で、無性に緑の中に行きたくなったら、それは身体や心が発している「不自然」な状態に対するサインなのかもしれない。

清浄な気の中で、正常な状態に戻る。それこそが聖地、霊場の真意であり、真面目(しんめんもく)なのではないだろうか。現世的来世的な願望やご利益への希求は尽きることは無くとも、つまるところは心であろう。そして心は身体と同体だ。身体の状態が正常であれば心も清浄に近づき、心が正常になれば、身体は清浄に近づいていく。そしてそれは、地球の力が、断層から漏れ出でて生命体に影響を与えるという形で発露する効果なのかもしれないとしても、そこに「自然」を見出し、「神性」を見出すというのは、今も昔も変わらない人の素直な心なのではないだろうか。

「身体が疲れたら、休めばいい。心が疲れたら休めばいい。ふと立ち止まって深呼吸をする。それでも駄目な時は、大きなものから力を貰いに行く。」そんな先人達の教え。携帯電話がどれほど高性能な機能を持ち合わせていようとも、充電が切れてしまっては何の役にも立たない。人も疲れたら、充電しに行けばいい。「自然の中で元気になる」、きっとそれはとても「自然」なことなのだ。ましてや、そんな自然の力をよりつよく感じることの出来る場所には神が宿り、力が集まると考えた昔の人々の感覚は、それほど非科学的でも、無理無体な発想でもないと思うのである。この世は考えているよりも、シンプルなのかもしれない、そんな風に思える場所はそれほど多くない。

「伊勢神宮」・・・おおいなる存在を感じられる場所。「何かをお願いする」というよりも、「何かに感謝する気持ち」が理屈抜きに「自然」と湧き出てくる場所である。

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