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愛宕神社で出世運をアップしよう

愛宕山と愛宕神社

武蔵野台地を除くと自然の山としては東京23区内最高峰である「愛宕山」。1925年(大正14年)に日本で初めてのラジオ本放送が始まったこの場所は、かつては江戸の町を一望できるその素晴らしい景観で知られていた。幕末にこの愛宕山から撮影された江戸市中の町並みの写真を見ると多少なりともその雰囲気が伝わってくる。どこまでも整然と続く美しい江戸の風景が一望できるその高さ、その眺望の良さは、さぞや江戸っ子に愛されただろう。

その愛宕山に鎮座するのが愛宕神社だ。1603年(慶長8年)、徳川家康の命を受け、江戸の防火の神として祀られたのがその始まりで、徳川家康が信仰していた、道祖神と地蔵菩薩が習合した「勝軍地蔵菩薩」を勧請、主祭神として火産霊命(ほむすびのみこと)を祀っているほか、罔象女命(みずはのめのみこと)、大山祇命(おおやまづみのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀っており、江戸の武士には「天下取りの神」「勝利の神」としても信仰されたという。

愛宕神社

この愛宕神社、実は「出世」にご利益があるとして知られる所なのだ。詳しい話をする前に、まずは神社正面の参道、大鳥居を抜けた先にある「男坂」と呼ばれる急な階段を見てみよう。

愛宕神社写真をクリックで拡大

写真でその傾斜のきつさが少しは伝わるだろうか。まさに見上げるような急峻な石段。段数にして86段あるというこの石段こそが、「出世の石段」と呼ばれ、この愛宕神社が出世にご利益があるともいわれるゆえんなのだ。

曲垣平九郎と出世の石段

時は、寛永16年、西暦1634年のこと。徳川三代将軍・家光公が将軍家の菩提寺である増上寺に参詣し、江戸城に帰る道でのことだ。駕籠の中から外を眺めていたのだろうか、ふと愛宕山の頂きを見上げた家光公の目に飛び込んできたのは、満開の源平の梅だった。その美しい光景を目にするなり、家光公は家臣に命じた。「誰ぞ、馬に乗ってあの梅を取って参れ。」

勿論、その頃の愛宕神社の石段の傾斜は今よりも随分と緩やかであった、などということはない。急な石段を馬に乗って上まで行き、梅を取ってまた戻ってくることなど出来るはずがないと、供をしていた家臣の誰もが尻込みをしていた。

「誰ぞ、おらぬか。」

一人として名乗り出るものもなく、次第に家光公がイライラし始めた時、家臣の中から一人、馬に乗り石段を上り始めたものが居た。そのものは見る見る間に石段を上っていき、頂上にたどり着いた。そして、梅を手折り、また馬で石段を下りてきて家光公に献上した。家光公は大変喜び、また、その馬術の腕前に感心し、「日本一の馬術の名人」としてほめたたえたという。そのものの名は「曲垣平九郎」。讃岐丸亀藩の家臣であった。平九郎の勇気と馬術の腕前にその場に居合わせた家臣らも感心し、彼の名は瞬く間に全国にとどろいたという。

この平九郎のエピソードは、武芸講談や浪曲の定番として知られる「寛永三馬術」の「出世の春駒」として伝えられ、平九郎の上った石段は「出世の石段」として有名になったのだ。

愛宕神社

社殿に向かって左側に、平九朗が家光公に献上したと伝わる手折りの梅の木が残っている。

愛宕神社に足を運び、初めてこの「出世の石段」を目の前にした人の多くが、「こんな急な階段、馬で上れるのか?」と訝るだろう。石段はそれほどまでに急なのだ。まさに天に上っていくような感じ。石段の両側に設置してある手すりと、その手すりを支える支柱の角度がその傾斜のきつさを物語る。斜度にして40度くらいはあるだろうか。

石段を上り始めるとすぐ気がつくが、実際に上ると、下から見上げるその見た目よりもさらに急な気がするのである。ややもすれば後ろに落ちてしまいそうになるほどに。確実に足を踏み出し、石段の一段一段踏みしめて上って行かないとよろめいてしまいそうになる。後ろをちょいと振り向こうものなら、バランスを崩しそうになる。それこそ、高所恐怖症の人など、半分以上上りきったらもう絶対に振り返らない方がいい。綺麗に整備されているとはいえ、所々若干歪んでいるような気がする石段のステップがずーんと下まで続くその光景に思わず目がくらんでしまうのだ。

愛宕神社

上から見下ろす石段。

石段を上りながら、再度疑念が頭をよぎるだろう。「本当にこんな急な石段、馬に乗って上がったのだろうか?」と。

家光公と曲垣平九郎のエピソードがどこまで史実に基づいているかは不明だが、実は明治時代以降、実際にこの急な石段を馬で上った例が三例存在する。

その一つは、元仙台藩の馬術指南役で、明治維新後に曲馬師をしていた石川清馬が1882年に成功させたという例。この成功により、石川家は徳川慶喜より葵の紋の使用を許されたという。

もう一つは、陸軍参謀本部の馬丁、岩木利夫で、1925年11月8日、廃馬として殺処分の運命にあった名馬・平形に騎乗して挑戦し、沢山の観衆が見守る中見事成功させたというもの。この成功により、平形は殺処分を免れ、陸軍騎兵学校の将校用の馬として使われ続けることになったとか。ちなみに、上りは1分ほどで駆け上がったが、下りには45分を要したという。

そして、三つ目は1982年に馬術のスタントマン、渡辺隆馬によって行われたもの。日本テレビの特別番組「史実に挑戦」内において、命綱や保護帽などを着用して行われ、32秒で登頂に成功している。

というわけで、実際に、この石段を馬で駆け上がることは可能なのだ。

愛宕神社

これらのエピソードを聞いて、あなたはどう思うだろう。ただ単に曲垣平九郎と後の三人は運が良かっただけと思うだろうか。または、無謀と勇気は紙一重だと思うだろうか。もしくは、これぐらいの石段なら自分にもできる、と思うだろうか。

この石段でどう考え、その後にどうするか。それこそが、「出世の石段」のご利益の神髄なのかもしれない。

愛宕神社徳川の太平の世でありながら、曲垣平九郎は普段から馬術の鍛錬を怠らないでいたのだとか。

今まで愛宕神社に一度も足を運んだことのない方は、是非一度神社を訪れてみて「出世の石段」を上ってみてほしい。もしそれがあなたの出世運アップ、仕事運アップ、金運アップに繋がったなら、望外の喜びだ。

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愛宕神社

防火、防災など火に関するもののほか、印刷・コンピュータ関係、商売繁盛、恋愛、結婚、縁結びなどにご利益があるとされ、近隣の住民はもとより遠方からもたくさんの人が参詣に訪れる。「平九郎の手折りの梅」のエピソードで知られる神社正面「男坂」の急な階段は、別名「出世の石段」ともいわれ、都内外のビジネスマンなどの参詣も後を絶たない。

愛宕隧道

愛宕神社のある愛宕山を東西方向に抜ける「愛宕隧道(愛宕トンネル)」。23区内の単体の自然の山としては一番の標高(海抜26メートル)を誇る山に掘られた23区内唯一の「山岳トンネル」だとか。1930年(昭和5年)竣工。向かって左側にあるエレベーターに乗ると愛宕山の上まで行くことができるので、階段や坂道を上るのがつらい方はこちらから行くと神社の参詣がしやすい。

愛宕神社
愛宕神社

男坂の右隣にある女坂。男坂よりも幾分傾斜は楽だが、ご覧のような階段が続く。階段上には老舗の中華料理屋がある。

愛宕神社

1610年(慶長15年)に、庚戊本社、坂下総門、末社仁王門、別当所等が徳川家の寄進により建立されている。その後、江戸大火災で全焼後、明治19年9月に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建がなった。しかし、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災、および1945年(昭和20年)5月24日の東京大空襲により太郎坊神社を残し、社殿を焼失しましたが、1958年(昭和33年)9月に本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至っている。

愛宕神社
愛宕神社
愛宕神社
愛宕神社
愛宕神社
愛宕神社
愛宕神社
愛宕神社
愛宕神社
愛宕神社

葵の御紋。祭礼の際などには寄付金を下賜するほど、愛宕神社への幕府の信仰は篤いものだった。

愛宕神社
愛宕神社
愛宕神社

Japan Web Magazine 編集部

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