五箇山

世界遺産「五箇山相倉合掌造り・合掌造りの集落」 相倉合掌集落

五箇山

富山県の山間部は、新潟県などと並び世界でも有数の豪雪地帯だ。冬になると、家々がすっぽり雪に覆われ、道の両側に背丈よりも高い雪の壁が出来ることも珍しくない。その富山県の砺波市から国道156号線を庄川沿いに南下していくと、合掌造りの集落がある。平村、上平村、利賀村にまたがる庄川沿いの赤尾谷(あかおだに)、上梨谷(かみなしだに)、下梨谷(しもなしだに)、利賀谷(とがだに)、小谷(おたん)の五つの谷におよそ60程の民家が並ぶ。「五箇山(ごかやま)相倉(あいのくら)集落」である。

富山・五箇山・相倉合掌集落
富山・五箇山・相倉合掌集落富山・五箇山・相倉合掌集落富山・五箇山・相倉合掌集落
富山・五箇山・相倉合掌集落
富山・五箇山・相倉合掌集落

日本は世界的に見ても雪の多い国だ。北は北海道から始まって、青森、秋田を通り、広島まで、実に日本の国土のおよそ半分が豪雪地帯に指定されているという。当然、年毎による差異もあり、地球規模の温暖化で雪も少なくなってきているのだが、それでも冬になると多くの地域で日常的に雪かきが必要になる。日本にこれほどまでに雪が降るのは、地理的、形状的な要因によるもので、記録に残っている一日の積雪量の世界最高記録はなんと滋賀と岐阜の県境にある伊吹山で1927年に記録された11メートル82センチ。1シーズンの積雪量ではない。1日の積雪量である。

ここ五箇山地方も冬になると雪に閉ざされる。現在では、東海北陸自動車道も通り他地域へのアクセスも冬でも随分と容易になったが、かつては人里遠く離れた山間部の秘境、知る人ぞ知る静かで美しい山村であった。

富山・五箇山・相倉合掌集落

合掌造り

合掌造りとは、人が手を合わせて拝むように木材を組んでいくその建築技法から名づけられたもの。一見すると華奢に見えるその構造も、雪の重みを左右に逃がす合理的な構造だという。信心深い地元民はかつて「ナムアミダブツ造り」と呼んでいた。

   

富山・五箇山・相倉合掌集落

    

富山・五箇山・相倉合掌集落
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塩硝

静かな山間部の集落である「五箇山相倉集落」はその昔、もう一つ別の顔を持っていた。「加賀藩の火薬庫」、黒色火薬の原料である塩硝の「秘密工場」だったのである。

1549年にやって来た南蛮人によって伝えられた鉄砲は、またたくまに全国に広がり、戦(いくさ)のあり方を根底から変えてしまった。それまでは、槍や刀で直接交戦していたものが、離れた場所から一斉射撃をすることで敵に甚大なダメージを与えるなど、その破壊的な威力をもってして、一時に激しく戦う方向へ次第にシフトしていったのだ。織田信長の鉄砲隊と武田勝頼の騎馬隊の戦いで鉄砲のその圧倒的な戦闘力が示された長篠の戦以降のことだ。以後、各大名は競って鉄砲を持ち始め、それとともに射撃に必要な火薬の需要も高まっていくことになる。この黒色火薬の原料に欠かせないのが、煙硝(塩硝)である。煙硝とは硝酸カリウム(KNO3)の通称であって、その製造には藁などのほかに、蚕の糞などが大量に必要であった。養蚕が盛んであったこの地域に、塩硝作りが伝わったのは偶然の産物ではないだろう。

 

塩硝製造にはまず、ヨモギや、ウドの葉、麻殻、蚕の糞・人尿などを幾重もの層にして穴に入れ、何年も寝かす。こうすることにより、地中の硝酸バクテリアにより、それらが発酵して亜硝酸が生成されるという。これに灰などを加え煮詰めると塩硝が出来上がる。これをさらに生成・混合することにより黒色火薬が出来上がるのだ。この煩雑で長時間かかる製造工程をみても明らかなように、煙硝は偶然出来上がったものではなく、明らかに他所から技術者によって伝えられた技術である。ではどこからどのように伝えられたのだろうか。

 

歴史的にあまり知られていないのだが、武田勝頼軍を打ち破った信長の鉄砲隊とも互角に戦っていた石山本願寺には、種子島に伝わった二挺の鉄砲のうちの一挺が火薬の製造方法と共に伝わったといわれている。信長軍に拮抗できるだけの数の鉄砲とその製造技術を本願寺が持っていたということになるだろう。その後、蓮如によって一向宗が広まっていた北陸の地に、本願寺は鉄砲の技術者を派遣したという。織田信長の勢力に対抗するためだ。この技術者が最終的に五箇山に火薬製造の技術を伝えたというのが一般的に伝わっている説だ。

 

富山・五箇山・相倉合掌集落

 

加賀藩は当然この情報をどこかで耳にし、目をつけただろう。そもそも一向宗が、織田信長に対抗するべく、秘密裡に加賀藩主に助けを求めたのかもしれない。それは歴史の闇に隠されていることであり、今となっては真相を知る由もないのだが、とにかく、様々な思惑が絡み合いながら、五箇山に塩硝製造が伝わってきたのである。

 
 

 

五箇山

 
 

加賀藩は国の存亡さえ左右しかねないこの塩硝製造を絶対なる秘密とし、村人達にも緘口令をしいて徹底したという。出来上がった塩硝を運び出すための街道も地図には載っていなかったという。(煙硝を塩硝と書くのも塩と偽って運んでいたからと伝えられる。)この山間部の人里はなれた地を流刑地として定めたりすることで一層の秘守を図ったとも伝えられる。いつの時代も市井の人々は時の為政者の思惑に従わなければならないのだろう。五箇山の人々も例外ではなく、米などの年貢を納めることを免除された代わりに、塩硝製造に従事することを義務付けられた。この塩硝製造は鎖国が解かれてチリから硝石が輸入されるようになるまで続いたという。

五箇山和紙

 

塩硝製造の他、炭焼きや養蚕などをして五箇山の人々は暮らしていたが、その他にもう一つ今に至るまでこの五箇山で重要な産業となっているものが一つある。それは和紙作りだ。自然豊かな五箇山には和紙作りに欠かせない美しい水が流れ、原料である楮が取れた。五箇山の和紙は主に加賀に出荷されていたのだが、その丈夫さと美しさで評判が高かったという。合掌造りの窓にもガラスなどなかった時代から明り取りとしてこの和紙を使った障子が嵌っている。風雪をものともせず、その美しさを保ち続ける五箇山の和紙がいかに丈夫であるかがわかるだろう。

富山・五箇山・相倉合掌集落
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