850年(嘉祥3年)、「山寺」立石寺や毛越寺と同じく慈覚大師円仁によって開山されたと伝えられる。その後、源義経との関わりで有名な奥州藤原氏の祖、清衡によって中興される。1105年(長治2年)のことだ。清衡は、源頼義との戦い「前九年の役」で父を失い(清衡7歳の時)、続く内紛の「後三年の役」で妻子を失い(同32歳の時)世の無常を身にしみて感じていたのだろう。世の中の平安を願い、戦で失われた命(敵味方はおろか昆虫草木の別なく)を弔うために七堂伽藍を整備建立していった。
有名な金色堂もその一つである。当時の奥州地方の金の産出量の多さを物語るこの金色堂は内外部総金箔貼りという豪華絢爛なお堂で、マルコポーロが伝え聞いた金の国「ジパング」の話はこの金色堂のことだと言われている。マルコポーロが元に仕えていた13世紀頃、奥州地方の豪族安東氏は十三湖畔にあった十三湊経由で独自に中国と交易を行っていたといわれ、そこからこの「金色堂」の話が伝わったものと思われる。
二代目基衡、三代目秀衡によってさらに整備が進められた境内は、「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」(吾妻鏡)という規模で、源頼朝に滅ぼされるまでのおよそ100年間、優雅な平安王朝を奥州に華開かせた藤原氏の勢力と信心深さを窺い知ることが出来る。現在も創建当時のまま残る金色堂をはじめ、数々の伽藍堂塔は、平和な世界を願った清衡の思いを今に伝えるものとして、また奥州藤原氏を滅ぼした後に鎌倉幕府を作り上げた源氏もその後三代で滅んでしまうという栄枯盛衰、盛者必衰の理を示す歴史の巻物の一場面を伝えるものとして、東北の地に佇み今日も歴史の移り変わりを見ている。
藤原氏の栄華が偲ばれる金色堂と、それとは対照的な質素な数々のお堂の対比は、美しい中にも儚さをはらんでいる桜の花のように、見るものの心に感動と一抹の物悲しさを与える。桜の花は散るからこそ美しい。散ってしまうことは悲しくとも、それもまたこの世の常なのだろう。800年前の奥州の武将が見ていた夢は、形を変えて私達に何かを教えてくれる。世は儚くとも、中尊寺は今日も平泉に華麗に咲き続け、訪れる者の心に、その者の人生のひと時に、何かを残していくのである。
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平泉 中尊寺 (ひらいずみ・ちゅうそんじ) DATA