港ができる前は農地が広がる村だった!?大都会「横浜」の風景
公開日: 2022年9月25日 | 最終更新日 2024年10月26日
農村から港町「ヨコハマ」へ
浅瀬の入り江がつりがねの形に広がり、そのつりがねの底に当たる入り江の出口部分に発達した「砂州」が、横にのびる形状の砂浜であったことから「横濱」という地名が付いたといわれる「横浜」は、今では想像もつきませんが江戸の初期頃には塩田が広がる場所であったといいます。その後、埋め立てによる新田開発(「野毛新田」1667年(寛文7年)完成。「吉田新田」1669年(寛文9年)完成。「横濱新田」1812年(文化9年)頃完成ほか)が行われ、江戸の中期~後期には一面農地が広がり、沿岸部には漁をする人々も暮らす長閑な半農半漁の村でした。
そんな横浜が劇的に変化するきっかけとなったのは、皆さんもご存じ幕末の「黒船の来航」です。江戸時代の初期から鎖国をし、出島などの限られた場所以外では海外と交流を持ってこなかった江戸幕府にとってはもちろんのこと、一般庶民にとっても大事件であったろう「ペリーの来航」と通商・開国要求、それにより結ばれた条約によって、函館や神戸などとともに横浜にも外に開かれた港が作られることになったのです。
なぜ、何もなかった横浜村に港が作られたのかというと、江戸湾の海上交通の要衝の一つであった「神奈川湊(東海道五十三次の三番目の宿場・神奈川宿と接していた)」から、少しでも遠ざけたいという幕府の意向があったのだとか。
そんなわけで、戸数にして僅か100戸前後という小さな村であった場所に、港が築かれ、外国人居留地が建設されたのでした。
港の開港は1859年(安政6年)。波止場ができ、商館が立ち並び、公園が作られ、次第に横浜は発展していきます。1872年には新橋との間に日本最初の鉄道も敷かれています。
そして、横浜港の開港から160年以上の時が経った現在、横浜には、塩田はおろか農村であった頃の気配や面影は一切なく、むしろ近未来的ともいえる高層ビルが立ち並ぶ「みなとみらい」の風景や、建設当時は最先端の意匠であったであろうノスタルジックな「洋館」の点在する素敵な景観、海と港と船のある開放的な景色、話題で人気のレストランやカフェが数多く並び訪れた人々が思い思いに楽しんでいる光景、そんな風景が広がっています。
というわけで今日は港町横浜の風景をお届けします。発展し始めの「横濱」の雰囲気を今に伝える山手の旧外国人居留地の洋館や港に築かれた横浜赤レンガ倉庫、大阪に「あべのハルカス」ができるまで日本一の高さを誇っていた「横浜ランドマークタワー」の見える風景、歌詞にもたびたび登場するベイブリッジの見える風景、絶品中華が楽しめるチャイナタウンの風景など、「現代と過去」「和と中と洋」が美しい形で同居する魅力的な街「横浜」の風景。訪れる季節や時間で様々な顔を見せる「ヨコハマ」にぜひ足を運んでみてくださいね。
横浜の風景
横浜みなとみらいのシンボル「コスモクロック21」
山手イタリア山庭園にある外交官の家(旧内田家住宅)
1930年から1960年までアメリカやカナダを結び、チャップリンなども乗船した氷川丸 現在は国の重要文化財となり海上保存されている
ライトアップされた夜の氷川丸
ドリアやナポリタン、プリン・ア・ラ・モードといった日本生まれの洋食・洋菓子発祥の地「ホテルニューグランド」
神奈川県立歴史博物館
甚大な被害を受けた関東大震災の後、市内のがれきで沿岸を埋め立て作られた山下公園
カトリック山手教会
神奈川県庁
横浜ベイブリッジ
横浜市開港記念会館(ジャック)
横浜の風景
高さ296メートルを誇る横浜ランドマークタワー
横浜のトワイライト風景
横浜マリンタワー
元町の夜の風景
夜の横浜港
横浜税関本関庁舎 (クイーン)
満月と横浜マリンタワー
横浜中華街
赤レンガ倉庫
夜の赤レンガ倉庫
夕暮れ時の赤レンガ倉庫