岡山後楽園

後楽園

岡山城と後楽園

岡山藩主・池田綱政が家臣津田永忠に命じての築庭以来300余年、「後楽園」は途中戦災や台風で大きな被害を被りながらも、その度に修復を加えられて復活し、現在も往時の姿をとどめている数少ない日本庭園だ。四季折々、時間帯や天候に寄って様々な美しさを見せる後楽園は、水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並び日本三名園の一つとして名高い。

後楽園の歴史は、県の名前の由来にもなっている「岡山」と呼ばれる小高い山を利用して、豊臣家の家臣であった藩主宇喜多秀家が城を築いたことによって始まった。この「岡山」の麓には旭川と呼ばれる川が流れており、城と城下町の防御をより強固なものにする為に、川の流れを大きく変えたのだが、この蛇のような流れに変えられた旭川の氾濫によって、以後岡山城下は幾度にも渡る洪水に苦しむことになる。

上空から見た現在の後楽園と岡山城

後楽園と岡山城

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その洪水から町を守るべく、藩主に自ら進言し、旭川の放水路として百間川を掘削する指揮をとったのが、その後、後楽園の築庭に携わることになる津田永忠であった。14歳から藩主池田光政に仕え「その才、国中に双ぶものなし」と光政に言わしめ、閑谷学校や吉備津彦神社の本殿建築にも関わった藩きっての英才は、百間川を作ることによって城下を洪水から救ったのである。因みに津田は翌年建築の閑谷学校では建築のみならずその経営にも携わっている。

さて、放水路効果による洪水の軽減や、新たに開発した新田からの増収により藩の財政状態も大分よくなった1687年(貞享4年)、旭川の対岸に後楽園の築庭が決定された。そして津田は数々の業績を認められ、築庭責任者として工事に着手することになるのである。旭川の水を取り入れて、園内に池と曲水と呼ばれる水の流れや滝を設け、二色が岡(にしきがおか)と呼ばれる山桜の林、千入の森(ちしおのもり)と呼ばれる楓林、領民の健康と繁栄を願って建立した慈眼堂(じげんどう)、能舞台、延養亭(えんようてい)と呼ばれる藩主の居間などが造られた。また田園風景を愛していた池田綱政の為に園内には田んぼや茶畑も造られていた。延養亭などの主要な部分は築園開始から4年後の1691年に出来上がるが、最終的に一応の完成を見るまでに実に14年もの月日を要している。

  

後楽園
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唯心山、沢の池、借景の操山など後楽園内外の景勝が一望できるように作られた延養亭。岡山空襲で焼失したが、昭和35年に築庭当時の間取りで復元された。

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旭川の水を取り入れて作られた曲水。巧みに川の水を利用した池や滝などが園内のそこかしこに配され、美しい水の風景を作り出しているが、それは一方で川の水の被害を受けやすいことも意味する。かつては藩主が舟で岡山城から直接来庭出来るように旭川から園内へと水路があり、御成御門(おなりごもん)と舟入場も設けられていたが、明治の旭川洪水を教訓に、大正年代に園内散策路を設けた際に大部分が閉じられた。しかし、昭和9年の室戸台風ではその対策も功を奏さず、2メートルもの冠水を記録、園は甚大な被害を被る。

後楽園
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