岡城跡と「荒城の月」
公開日: 2015年5月18日 | 最終更新日 2022年10月14日
大分県竹田市にある岡城跡は、明治生まれの作曲家で日本を代表する音楽家の一人「瀧廉太郎」が、名曲「荒城の月」の着想を得たといわれる城だ。
1879年(明治12年)、東京市芝区南佐久間町(現在の東京港区西新橋2丁目)に生まれた瀧廉太郎は、幼少期を東京、神奈川、富山で過ごした後、官僚であった父・吉弘の転勤に伴い、1890年(明治23年)5月に、瀧家の元々のルーツでもある大分に移り住んだ。さらに、1891年(明治24年)12月には一家で豊後竹田へと移り住んでいる。廉太郎は、再び上京するまでの2年5か月余りを竹田の地で過ごしているのだが、この竹田の町に聳える標高325メートルの天神山に「岡城跡」はある。
築城は古く、平安時代末期~鎌倉時代の武将・緒方 惟栄(おがた これよし)が、源頼朝に追われた義経を迎え撃つために築いたのがその発祥ともいわれ、1334年(建武元年)に後醍醐天皇側の武将大友氏の一族・志賀氏が城を拡張、この頃「岡城」と名付けられたという。
1594年(文禄3年)には播磨国三木から中川秀成が入城し、大掛かりな改修を加えている。以後、明治維新にいたるまで、中川氏が14代277年間にわたりこの地を治めた。
しかし、明治維新後、廃城令によって岡城は廃城となり、1872年(明治5年)頃には、城内の建造物は全て取り壊されてしまう。廉太郎が竹田に移り住んだのはそれから19年後の事。すでに城跡は荒廃し、荒れ放題になっていたに違いない。当時12、3歳の廉太郎少年は、この岡城跡で、時には友達と、時には一人で遊んだことだろう。多感な少年時代、何百年もの長い歴史が浸みこんだ城跡で、廉太郎は何を思ったのだろうか。
実は、「荒城の月」の作詞者である土井晩翠は、出身地である仙台の青葉城址や、会津若松市の鶴ヶ城址に着想を得て詞を書いたとされているが、作曲者である廉太郎は、「荒城の月」の着想をどこで得たのかは、本人は明言していない。それゆえ、「荒城の月」は、同じく幼少期を過ごした富山城跡のイメージである、という説もあるのだが、雨の岡城跡を訪れてみると、やはり廉太郎の頭の中にあった「荒城」は、この岡城跡なのではないか、という気がするのだ。
現在でこそ、国の史跡および日本100名城の一つにも選ばれており、ある程度整備されてはいるが、それでも東京ドーム22個分という広大な面積をほこる城跡に淡々と流れているのは、「盛者必衰の理」「兵どもが夢の跡」の空気にもよく似た「儚さ」と「憂い」だ。何十年何百年という時間が、何百人何千人という人の思いが、流れ、そして消えていったその後に残るもの。
人の生や死、愛や涙、笑いや嘆き。喜びや悲しみや楽しみや苦しみが、気の遠くなるほど繰り返され、積み重なって、そして、ふわりふわりと少しずつ、薄綿をはぐように風に飛ばされ消えていく。それらは、思いの残像となって、記憶の断片となって、そこかしこに明滅する。草いきれや、雨の匂いや、風や光の片隅に、ひっかかりながら。
瀧廉太郎は、1901年(明治34年)4月、ドイツのライプツィヒにある音楽院に留学、ピアノや対位法などを学ぶが、わずか2か月後に肺結核を発病し、約1年で帰国を余儀なくされてしまう。そして、1903年(明治36年)6月29日、23歳という若さで、この世を去っている。