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姫路城が売り出されたことがあるって本当?

姫路城

時代や場所で大きく変わる「常識」

常識という言葉があります。日常的に用いられる言葉なので調べるまでもないかもしれないですが、念のために辞書を引いてみると「世の中で当然と思われていること、社会的に当たり前と考えられていること、一般の人々が持っている、もしくは持つべきと考えられている通念や考え、ものごと」といった意味が掲載されています。

皆さんの周りにも日頃、何かにつけ「常識、非常識」という言葉を使う人もいるのではないでしょうか。

「常識」に当然のように従って暮らしている人、仕方なく「その」範囲内で行動している人、はたまた常識なんて関係ないといわんばかりに自由に暮らしている人もいることでしょう。

この「常識」ですが、ご存じのように場所が変われば大なり小なり変化しますし、時代によっても変わります。

身近なところでいえば、例えば女性に向かって、見た目や身体のことについて不用意な発言をすれば「セクハラ」となるのは現代の常識。

これもついぞ十数年前まで、職場などにおいて、世の男性たちは当たり前のように女性の見た目や体のことについて、本人や周りに向かって発言をしていた訳です。

別にそれが当時の常識だったから許されていた、というわけではないでしょうし、嫌な思いをした女性たちはごまんといたはずですが、当時の「常識」ではそれがまかり通っていた訳です。

テレビ番組においても、暴力的で乱暴なコンテンツなどは、コンプライアンスの関係でここ数年で特に激減しましたよね。かつては当然のように放送されていたアブナイ内容や発言は、今ではすぐ簡単に炎上してしまう、それも現代の常識です。

そうした「常識」というものは、太平の世の中でさえ数年から十数年で大きく変化するわけで、激動の時代には昨日の常識が今日には全く通じなくなっている、というようなことも多かったでしょう。

中でも、江戸の末期から明治時代にかけての「日本史」の中でもトップクラスに入るほどに世の中が大転換した当時、人々の価値観は大きく覆され、巷には混乱が渦巻いていたことと思いいます。

そもそも人々の見た目や持ち物からしてがらりと大きく変化した訳で、良くも悪くも当時の世の中の変化の度合とスピードはすさまじいものがあったに違いありません。

そんな混乱状態を物語るようなエピソードの一つに姫路城の話があります。

姫路城

姫路城が売りに出された話

江戸時代にお城といえば、庶民にとっては雲の上の存在である藩主が居るところ。もしくは藩の政治の中心であり、様々な意味でシンボル的な存在であった場所です。江戸に住んでいた江戸っ子ならいざ知らず、江戸以外の地域に住んでいた人々にとっては「江戸城(天守は1657年に発生した「明暦の大火」で焼失して以降再建されていません)」なんてものは別世界の話で、自分たちの住んでいる藩のお城が世界の中心だったわけです。

当時の藩は、現代の都道府県と比較するとはるかに独立性、独自性が高く、いわば小さな国が日本国内に沢山あったような状態。表向きは江戸幕府に恭順しているように見せていても、藩ごとに強固な自治権があり、それぞれ独自の政が行われていたのでした。

例えば、現在の都道府県の一つ「鹿児島県」が国に断りもなく外国と条約を結んだり、戦争をしたりなどということはあり得ないことですが、江戸時代には生麦事件を発端に薩摩藩とイギリスが戦争をしています。

そんな藩のシンボル的存在である「城」が、どれほど重要な意味を持っていたかは容易に推測できるでしょう。

それが明治時代に入り、1873年(明治6年)に明治政府が「廃城令」(全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方)を発したことにより、それまで中心的な存在であった城は、突然厄介者扱い。存城処分(明治政府の陸軍の軍事用施設となる)か、廃城処分(売却用の財産として処分される)かという扱いになってしまったのです。

江戸時代初期に建てられ、現在では「国宝」や「重要文化財」「国の特別史跡」、そして「世界遺産」にも登録されている麗しき「姫路城」も、明治時代に入ると国有化され、その後陸軍省の管理下へ、維持費が膨大だったことでほどなくして民間に払い下げとなり、1874年(明治7年)に競売で売られてしまいました。その価格はなんと、たったの23円50銭。明治30年頃の学校の先生のお給料が8円~10円くらいといいますから20年ほどさかのぼるとしても、城の売値/買値は現在の貨幣価値に直すと約20~30万円前後くらいとなるでしょうか。

その後、姫路城はその価値が認められて再度国の管理下となり、1879年(明治12年)には陸軍省第四局長代理・中村重遠大佐の奔走のおかげもあり、名古屋城と共に保存が決定しています。

1890年(明治23年)には支柱などを追加する補強工事が、さらに1910年(明治43年)~翌1911年にかけて大天守、小天守、渡櫓、門、などの修理をする「明治の大修理」が行われました。

ところで、民間への払い下げに関しては、時代が混乱期だったこともあり、残存している正確な書類が少ないこともあって、真実は分かってはいないようです。一説には瓦や古鉄を再利用するために買い取ったという説のほか、永久保存するために買ったという説もあります。また、そもそも購入したのは天守ではなく城内の一部の建物であったともいわれます。

奇跡の城と失われた国宝

太平洋戦争末期には、姫路城の天守に落ちた焼夷弾が不発であったために燃えずに済んだ、という奇跡的なエピソードも知られていますが、ほかにも姫路城は倒壊しそうになった時期なども乗り越えています。いずれにしても、幾つかの偶然や奇跡的な出来事が重なり、世界に誇れる国宝「姫路城」は、今の私たちの前にその美しい姿を見せてくれているのです。

ちなみに姫路城と共に保存が決まり、戦前は「国宝」指定も受けていた「名古屋城」は太平洋戦争時の1945年(昭和20年)5月14日の名古屋大空襲で焼失してしまっています。

Japan Web Magazine 編集部

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