与島 伝統とモダンが同居する風景 

与島
瀬戸大橋(左上)と蔵のある家並み

瀬戸内海に浮かぶ「与島」は、面積約1.1平方キロメートルの小さな島。大小合わせて28の島々からなる塩飽諸島(しわくしょとう)の一つで、多くの島が組みとなっているので、「組」が与するの「与」に転じ、「与島」と呼ばれるようになったともいわれる島だ。

塩飽諸島は瀬戸内海の水上交通における要衝であり、古くは「源平の合戦」や「倭寇」に関連する地であったともいう。1207年(建永2年)には、讃岐へ島流しになった法然も立ち寄っている。周辺海域は、潮の流れが早く複雑で、島の住民は操船に長けており、戦国時代には水軍も活躍していた。豊臣秀吉の時代に、塩飽の島々の船方650名を御用船方とし、1250石を与えるという「人名制度」が定められ、江戸時代には自治領となっている。操船技術のみならず、造船技術も高く、船は丈夫で質の高いものであったといい、記録によれば最盛期には、船が四百七十二隻、船乗りは三千四百六十人。瀬戸内海が海上輸送の大動脈であった時代、この塩飽諸島の船人達が物資の運搬に大活躍していたのだ。

人名制度は世襲制で、人名株を持つ人たちは、代々それを受け継ぎ、各島の中心になって自治活動を行った。この与島でも、人名株を持つ人々は、必要に応じて船や水夫を出したり、年貢米の運搬に携わったりしながら、江戸時代を通して活躍、その組織、つながりは、大分廃れてしまったものの、現代にいたるまで続いているともいう。

そんな与島の島内を歩くと、蔵のある立派な家々が建っているのが目に入る。小さな島であるがゆえか、人が一人通れるくらい細い路地も多いが、その路地に面して建つ家々は、立派な家も多い。

明治に入ると、与島に隣接する無人島に建造された、日本でも最古の洋式灯台の一つに数えられる「鍋島灯台」が、周辺を通る船の重要な目印となった。その後、周辺の島々と同じくこの与島でも採石業が盛んとなり、採石された多くの石が運び出されている。とはいえ、無数にあるそのほかの瀬戸内海の島々と比べてもそれほど際立って特徴があるわけでもなかった島は、かつての船乗りたちの栄光の記憶が次第に薄れゆくと共に、その存在も目立たないものとなっていった。

そんな与島がにわかに騒がしくなったのは、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が、この与島を経由して建設されることが決定したことによる。島内の測量調査や与島漁協との交渉などが行われた後、建設工事は1978年に始まり、それから9年6ヶ月の歳月と1兆1,338億円の事業費をかけ、瀬戸大橋は1988年4月10日に供用が開始された。

与島へのアクセス

かつては、船でのみ行き来することができた島は、瀬戸大橋が開通して以来、車でも往来が可能となった。(島内への車両の乗り入れは路線バスと島民関係者のみ)

瀬戸大橋を往来する多くの人々は、距離がそれほどあるわけでもないこともあって一気に橋を通過する場合も多く、与島に立ち寄ったとしてPAに足を運ぶのみで買い物やトイレを済ませてすぐ立ち去ってしまう場合が多い。そんな訳であまり知られていないが、実は駐車場に車をとめて、徒歩で島内を散策することが可能だ。駐車場の端から、徒歩でPAの外に出られるようになっている。また、PAに車をとめ、路線バスで島内に行くこともできる。

巨大な現代の建造物と、昔ながらの美しい木造の日本家屋の同居する風景。ちょっと時間をとって、この瀬戸内海の、小さくも歴史ある島を歩いてみてはいかがだろう。

撮影場所

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