吉田胎内樹型

吉田胎内樹型

富士講の聖地

吉田胎内樹型

溶岩流と胎内樹型

火山が噴火した時に流れ出た溶岩流が、樹海の立ち木や倒木の上を流れた際、内部に閉じ込められた木々が燃え、その木々の形を残したまま溶岩が冷え固まると、木の形をした空洞が出来上がる。それが溶岩樹型とよばれるものだ。樹木が鋳型の役割をして、冷え固まった溶岩の内部に複雑な形をした空洞を作りあげるのである。粘性が低い玄武岩質の、流れやすい溶岩を排する富士山の周辺には、鳴沢の溶岩樹型をはじめとして数多くの溶岩樹型が残っているのだ。

そんな溶岩樹型の中でも、特に、数本以上の樹木を包み込んで出来上がった、より複雑な形をした大型の溶岩樹型を複合型溶岩樹型といい、吉田胎内樹型は、すぐそばにある船津胎内樹型と並ぶ代表的な複合型溶岩樹型の一つ。幾本もの樹木が折り重なるようになった状態で溶岩に覆われ包み込まれて燃え、さらに高温のガスで再溶解した溶岩が皺状となって流れ、壁がろっ骨のような形状となっており、出来上がった空洞はまるで人体内部のような形をしているために「胎内樹型」と呼ばれている。

吉田胎内樹型の構造

周辺に点在する60を超える溶岩樹型と共に天然記念物にも指定されている吉田胎内樹型は、長さ14.5mの横穴に、縦方向の樹型が3本つながった構造となっており、横穴末端には富士講中興の祖・食行身禄の祠が、さらに人工的に掘られたとみられる横穴の下部にある二つの穴の奥に、それぞれ瓊瓊杵尊と木花開耶姫命が祀られている。瓊瓊杵尊の祀られている長さ8mの穴は父の胎内、木花開耶姫命の祀られている長さ20mほどの穴は母の胎内とされていた。木花開耶姫命は安産の神であり、富士講の人々は胎内を参詣した後、安産のお守りとして腹帯や蝋燭を求めたという。この蝋燭は、出産時に灯すとお産が軽くなるといわれていた。

御胎内と安産祈願

吉田胎内樹型をはじめとする富士山周辺に数多く残る胎内樹型は、御胎内と呼ばれ、富士講の信者や、地元の人々の信仰の対象であった。特に、医療が今ほど発達しておらず、お産には現在よりも危険が伴っていた時代、まるで人体の内部のような構造をした御胎内には、女性たちが訪れ安産の祈願をしたという。この御胎内は、時に産道のようにも見えるその形状から、水の神であり、噴火を鎮めるために富士山に祀られている木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)(安産の神、子育ての神でもある)が生まれた場所であるとも信じられていた。

吉田胎内樹型の発見

937年(承平7年)の富士山噴火の際に流出したとされる剣丸尾溶岩流の東縁にある吉田胎内樹型は、埼玉県入間郡上宗岡(現在の志木市)の丸藤講の八代目の先達・日行星山(本名:星野勘蔵)によって、1892年(明治25年)に発見され、整備されたもの。以後1673年に発見され、江戸時代から知られていた船津胎内樹型は旧胎内、こちらは新胎内と呼ばれるようになる。日行星山は、富士登山八十余回、お中道めぐり7回の経験者で、吉田胎内樹型の入り口付近には、この日行星山や宗岡の信徒たちが建てた石碑が数多く残っている。

富士山と富士講の歴史を語るうえで欠かせない存在として、2013年に「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録された。

吉田胎内樹型
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吉田胎内樹型
吉田胎内樹型

Memo

吉田胎内樹型の近くに駐車場はなく、吉田胎内樹型へと至る道もしっかりと整備されてはいないので、少し離れた場所に車を止めて徒歩でアクセスすることになる。森の中に入ってから吉田胎内樹型まで徒歩で20~30分ほどで着くが、普段ほとんど人の通らないであろう道は歩きにくく、迷いやすいので注意が必要だ。吉田胎内樹型の内部は通常一般公開されてはおらず、入り口には鍵がかかっていて内部に入ることはできない。内部に入ることができるのは一年に一度の「胎内祭」の時のみ。それ以外の時期に吉田胎内樹型を訪れる場合には、十分注意したい。

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