原爆ドーム

原爆ドーム

広島平和記念碑

原爆ドームとして知られる広島平和記念碑は、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた建物だ。1915年(大正4年)4月5日に竣工、同年8月5日に広島県物産陳列館として開館した。設計はチェコの建築家ヤン・レツル(ヤン・レッツェル、Jan Letzel)。一部鉄骨を使用したレンガ造りの建物で、ドームの先端までの高さは約25m、建物の周囲には広さ約500~600坪の和洋両方の庭園があり、洋式庭園の方には八方から水を吐く噴水を備えた池が、また和風庭園には四阿が設けられていた。建築当初は、周囲に木造の建物が立ち並ぶ中にあって、石材とモルタルで外装を施され中心に銅板葺のドームが乗ったこのヨーロッパ風の建物の美しさは評判となり、広島名所のひとつになったという。

物産陳列館内には、県内の物産品や他府県の参考品が集められて陳列されていた。また、商取引に関する書籍・新聞・雑誌等の閲覧も出来、商工業に関する調査及び相談、図案調製等も業務として請け負っていた。さらに、博物館や美術館として使用されるスペースもあり、県の重要な文化振興の場でもあったという。館の名称は、1921年(大正10年)に広島県立商品陳列所へ、さらに1933年(昭和8年)に広島県産業奨励館と改称されるが、戦争が庶民の生活に暗い影を落とすまで、広島の産業振興・文化振興の中心的役割を担っていた。

戦争が始まって以降は文化振興の側面は抑えられ、産業振興に重きが置かれるようになる。戦況の激しくなった1944年(昭和19年)3月31日にはついに館業務が廃止、官公庁や統制組合の事務所として使用されるようになった。

1945年(昭和20年)8月6日、午前8時15分原爆が投下され、市内は一瞬のうちに火の海となる。爆心地から160メートルという距離にあった産業奨励館は、音速を超えるといわれる爆風と衝撃波、熱線を受け大破、天井から火を吹いて全焼した。しかし、爆心地に近かった事で爆風が上方から垂直に流れ込んだ為に、中央のドーム部分だけは全壊をまぬがれる。

鉄枠のドームが残った産業奨励館はバラックの建ち並ぶ焦土とかした広島の街でとても目立ったという。そしていつしか、人々は、この焼け残った建物を原爆ドームと呼ぶようになる。

復興が進む中、「原爆ドーム」について、見るたびに惨禍を思い出すので撤去して欲しいという意見と、原爆の惨禍を後世に伝えるためのシンボルとして残すべきだという両方の意見が噴出、議論が沸き起こる。が、次第に保存を求める運動が高まり、1966年に広島市議会は永久保存することを決議、翌年には保存工事が完成し、その後も定期的に風化を防ぐための補修工事をうけながら、現在に至っている。1995年に、国の史跡に指定され、翌1996年には、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との願いと戒めの「負の世界遺産」としてユネスコの世界文化遺産への登録が決定された。

原爆ドームをフルスクリーンで見る

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Memo

日没から日の出までライトアップされている。

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