安土城

安土城

天下布武

1467年の応仁の乱を境にして、日本は戦国の世となった。主君を討つ下克上や近隣大名との戦、他国への侵略を繰り返しながら、全国の大小の大名達は天下統一を目指して領土を広げ、戦いに明け暮れたのである。そんな数多の大名の中で、南蛮からの新しい文化を積極的に取り入れ、身分の上下によらず部下の勲功を取り立て、楽市楽座に代表される自由闊達な政治を行い、天下統一にもっとも近づいた武将こそ、戦国大名でその名を知らぬものはいないであろう「織田信長」だ。

1534年(天文3年)に尾張の国で生まれた信長は、周囲の人々から「うつけ者」と呼ばれるような自由奔放で奇抜な行動を繰り返しながらも、成長するにつれ次第に戦国武将としての頭角を現してゆく。15歳で家督を継いだ後、今川義元を「桶狭間の戦い」で破ったのを皮切りに、斉藤、武田などの諸大名と交戦、1568年(永禄11年)足利義昭を擁して上洛、天下統一に王手をかけるのである。

さらに北畠、朝倉、浅井等の諸大名と交戦するほか、石山本願寺や比叡山延暦寺の寺社勢力、一向宗の門徒らを制圧、1575年(天正3年)には権大納言、右近衛大将を続けて叙することになる。

幻の名城

そんな織田信長絶頂期の1576年、標高199mの安土山に築城されたのが、「安土城」だ。およそ三年の月日を経て完成したこの山城は、当代一の城と呼ばれ、各層が朱色、青色、白色、最上層は金色に輝く五層七重の天主閣(天守閣)で、安土山の山腹には家臣たちの屋敷なども併設された壮大な城であったという。199mの安土山に24mの石垣、その上に30mの天主閣が聳え立っていたというのだから、その壮麗さは群を抜いていた事だろう。本丸跡では、内裏(天皇の住まい)にある清涼殿と同様の造りの御殿らしき跡も発見され、信長が天皇を迎える為の準備をしていたことも窺い知る事が出来る。当時、実際に城を見た宣教師ルイス・フロストは故郷への手紙に、「ヨーロッパにもこれ程の城は存在しない」と書き送っている。

安土城跡をフルスクリーンで見る

しかし、殆どの人がその結末を知るように、信長は1582年(天正10年)、突如謀反を起こした部下の明智光秀によって滞在先であった本能寺を包囲され、波乱万丈の生涯を閉じることとなる。時に49歳であった。

天下随一と言われた名城、「安土城」も「本能寺の変」の後何者かに火を放たれ、狩野永徳らが描いた屏風絵や一流の職人や絵師達の一世一代の仕事もろとも灰燼に帰してしまう。かろうじて残った二の丸がしばらくの間機能していたようだが、結局1585年、ついに廃城されたと伝えられている。城が完成してから僅か7年目の事である。現在、部分的に残る立派な石垣などに、隆盛を極めた信長の巨大な権力の一端を窺う事は出来るが、石と土と木々の城跡には往時の絢爛豪華な名城の片鱗さえも残っては居ない。城のあった跡には礎石が残り、天主跡からは琵琶湖とはるかに広がる田んぼを眺めることが出来るのみである。

天下統一を目前にしながら、志半ばで明智光秀に討たれた織田信長。歴史に「もし」はないと言うが、もし信長が「本能寺の変」で斃れずに生き続けていたならば、日本は随分と違った国になったであろうという人も少なくない。本能寺の燃え盛る炎の中で、一体彼は何を考えていただろう。無念ゆえに歯噛みをしていたのか。それとも信長が好んでよく舞ったという幸若舞(こうわかまい)の「敦盛」の一節「人間五十年、化天(下天)の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け滅せぬ者の有るべきか。是を菩提の種と思い定めざらんは、口惜しかりし次第ぞと思い定め」の文言のように、全ては儚いものであると悟っていたのだろうか。

安土城

安土城

安土城

安土城

安土城

遅かれ早かれ、全ての形あるものはいずれ壊れて消えてしまう。ほぼ頂点を極めたかに見えた信長も天下統一を目前に斃れ、天下の名城「安土城」もあっという間に夢幻となってしまった。後にはただ風が吹き、空へと塵が舞うだけだ。全ては流れ、巡りゆき、そこに栄華の面影はない。木々がざわめく安土山、ひっそりとした城跡で、あなたは何を思うだろうか。

安土城

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大手道

大手門から続く大手道。急な登りが続く。大手門をくぐってすぐ右手が前田利家屋敷、左が羽柴(豊臣)秀吉屋敷跡と伝えられる。

安土城

   
    

安土城

「摠見寺三重塔」

1454年(享徳三年)建立の摠見寺三重塔。火災を逃れ、建立当時の姿で現在まで残る。

安土城
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約3年の歳月をかけて築城された織田信長の居城跡

安土城

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