尾瀬

尾瀬

この世の楽園

この世にもし楽園があるのならば、それはきっとこんな所だろう。

湿地帯を守るために設けられた木道の上でしばし立ち止まりながら、ふと思う。つい数時間前までの激しい雨が嘘の様に、空は青く澄み、薄雲が柔らかく棚引いている。心地よい風が抜け、緑は柔らかくそよぐ。色とりどりの花が咲き、昆虫達が蜜に集まってくる。空から降ってくる温かさは周囲に命を漲らせ、右手に見える燧ケ岳は雄々しく鎮座している。もう少し時期が早ければ、キスゲがあたり一面を埋めていたのだろう。それはまさしく楽園の風景に違いない。

今からおよそ百年前、現在の様に人々に「尾瀬」という名が知られるようになる遙か以前に、この尾瀬に惚れこみ、住み着いた一人の男が居た。名を平野長蔵という。「日本の自然保護」の先駆けと言われる人物である。彼が居なければ、おそらく尾瀬はその美しさを今日まで保ち続けることは出来なかっただろう。時は19世紀後半から20世紀初頭の激動の時代。産業振興が叫ばれる中で、各地の自然が破壊されていた時代だ。折りしも尾瀬の水利権を獲得した関東水電は、1919年(大正8年)に、尾瀬ヶ原をダムにし、尾瀬沼・尾瀬ヶ原間と至仏山にトンネルを掘って発電所を作る計画を発表した。長蔵は単独で尾瀬に定住して抵抗の姿勢を見せると共に、1921年単身上京して、7月26日付で当時の水野錬太郎内相に宛て、計画の中止を求める書簡を提出している。

巨益を生み出す水資源を利用した産業は、複雑に利権が絡み合う。福島県側と群馬県側との互いの牽制や、政友会と憲政会という当時の派閥同士の争いの代理戦争の様相を呈しながら、尾瀬ヶ原を中心とした水利開発は二転三転する。が、結局、(奇跡的にも、)尾瀬沼南側に取水口が一つ作られたのみで、尾瀬ヶ原開発計画が実行に移されることはなかった。平野長蔵個人一人の力だけではないにしても、彼がこの尾瀬の自然を守るために尽力したことが実を結んだのであった。平野長蔵が全霊をこめて取り組んだ尾瀬の自然保護活動は、1960年代、尾瀬へ乗り入れる自動車用道路建設に反対し環境庁長官に建設中止を直訴して建設中止に持ち込んだ孫の平野長靖へと受け継がれながら、現在まで続いている。多くの人々の尽力により、今日の美しい尾瀬があるのだ。

尾瀬の大自然の魅力をフルスクリーンで見る

「ウメバチソウ」

ノアザミ

「ノアザミ」

美しい花なのに、触れると棘があって痛い事から、「あざむく」、でその名がついたと言う「野アザミ」。ちなみに同じような花の形をした「タムラソウ」には葉に棘がない。

「キンコウカ」

おこじょ

歩いていたら、木道の隙間からおこじょが顔を出した。実はおこじょはその愛くるしい表情とは裏腹に、性質は意外に荒いという。一通りちょこまかした後、笹薮の中に消えていった。

木道木道
オオバセンキュウ

「オオバセンキュウ」

エゾリンドウ

「エゾリンドウ」

尾瀬の花々

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尾瀬

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