香蔵

香蔵

隠れた名店を探す旅4

海に囲まれた国、「日本」全国に数多くある「新鮮な魚介の獲れる町」。そう、例えばここ紀伊半島南端(本州最南端)に位置する串本町のような町を訪れて酒飲みが悩むのが、その日にどの店で飲むか、という事だ。新鮮な魚介が獲れるのだから、町のどこに行っても美味しいはずというのはある意味正しく、ある意味間違っている。それは多くの方が経験的にご存知だろう。素材がいいのだから美味しい。いかにもそのはずだ。しかし、素材がいいのだから、調理次第でもっと美味しいのに・・・と残念な思いをする。そんなこともままある。富山の小さな町の、ある小料理屋の主が言った。「魚は捌き方、切り方一つで全然味が変わってしまう」と。そして「それを知っている人は意外に少ない」と。その通りかもしれない。同じような素材でも、包丁一筋何十年の名手が、よく研がれた包丁で切る刺身と、素人が切れない包丁で切る刺身。舌触り。歯ごたえ。そして香り。盛り付け以前に、歴然と味が違う。考えてみれば至極当然の事だ。「切る」というのはただ物質や繊維を断つ、というだけの行為ではない。それは言わば、「素材」を「料理」にする為の大事なプロセス。「切る」行為で既に調理は始まっているのだ。プロなら当然と思うだろう。しかし、実際にそれをおろそかにしている店のいかに多いことか。

   
    

そう。要するに、ある場所、ある店に訪れたときに我々が感じる「美味しい」「いまいち」は、素材の新鮮さと火の入れ方、そして味付けによる、とつい思いがちだが、それだけではないということだ。火を通したり味をつけたりというそれ以前の「切り方」一つで大きく味が変わってしまうのである。煮付けしかり、揚げ物しかり、酢の物しかり。そして、そもそも加熱調理をあまりしない「刺身」などは、(素材の鮮度は勿論のこと、)まさに「切り方」一つで大きく味が変わってしまう、という事だ。

そんなわけで、新鮮な魚介の獲れる町だからといって、(新鮮な魚介を使っているからといって、)最上の料理、最高の肴が出てくるとは限らない。無論、店の雰囲気も大事。値段も大事。

だからこそ、酒飲みは今夜もどの店で飲もうか悩むのである。

本州最南端の名店

和歌山県の南にある串本町は漁業の盛んな町。「串本」という町の名を知らなくとも、「潮岬(しおのみさき)」という名前ならご存知の方も多いだろう。天気予報、特に台風などの予報では必ずといっていいほど出てくる名前だ。その潮岬がある町が串本。人口およそ1万8千人ほどの静かな町だ。温暖な気候、豊かな自然。海沿いにある町特有の、開放感とどことなく保守的な感じが同居した独特の雰囲気。まさに「ざ・みなとまち」な串本の駅から歩いてすぐのところに、「香蔵」はある。香る蔵とはいかにも素敵な名前だが、その名が決して名前負けではない事は、店に入って徐々に判明することとなる。

香蔵香蔵

暖簾をくぐり引き戸を開けると、賑わった店内から「いらっしゃいませ」の声が響く。一人である旨を告げると入り口に近いカウンター席に通された。角部屋ならぬ角席好きにとっては、一人で飲むにはある意味ベストな場所だ。早速、生を一つ注文する。ほどなくして、よく冷えた生と共にお通しがやって来た。若い店員さん曰く、「お通しのピンピン貝です!」

香蔵

「ピンピン貝」

ピンピン貝・・・実に面白い名前だ。活きの良さから来た名前だろうか。正式名はマガキガイ。静岡近辺では「トネリ」、三重「カマボラ」、高知「チャンバラ貝」、沖縄では「ティラジャー」、「コマガイ」などとも呼ばれる。日常的にこの貝を食べる地域の人たちはご存知だろうが、実に美味なる貝だ。甘くてこりこりっとしていて、後を引く。爪楊枝で身を引き出して食べるのだが、慣れるまではちょいと難しい。しかし、一度コツを掴んだならば、その美味しさと次こそはもっと上手に身を取るぞという、酒飲み(食いしん坊)の向上心で、次から次へと夢中になって食べてしまうのだ。お通しで出てきたこのピンピン貝。あまりの美味しさに思わず追加でお代わりをしてしまった。

香蔵
香蔵

「刺身の盛り合わせ」

ほどなくして刺身の盛り合わせが出てくる。ヒラメに、地物のタコ、マグロ、カンパチ、ビンヨコ(こぶりのキハダマグロ)、イカ、そしてアワビ。これで1800円。都会では絶対にありえない値段。勿論安いだけではない。こりこりっとした歯ごたえのアワビや地物のタコを筆頭に、甘みと旨みの合わさった至福の味の連鎖がこれでもかと続く。これを一人きりで頂いて何が勿体無いって、この旨みと幸せを分かち合う相手がいないのが勿体無い。

香蔵

「イラギのミリン干」

濃いめ、甘めの味付けのイラギのミリン干。ビールとの相性バッチリ。イラギとは、サメの事。

香蔵

「ガシラのから揚げ」

「ガシラ」というのは地元の言葉で、カサゴの事。からっと揚げられた新鮮なカサゴに、レモンをちょいと絞って、塩をつけて食べる。旨くないわけがない。

香蔵

「カツオの塩辛」

いわゆる酒盗だ。いかにも身体に悪そうな塩辛さ。しかし、それが酒飲みには全くもって堪らない。勿論ただ塩辛いわけではない。旨みが存分に引き出された上で、まろやかに発酵した状態。日本酒が必需品なのは言うまでもない。

香蔵

「太平洋」

和歌山の地酒「太平洋」。熊野川の伏流水で醸したというお酒は、紀伊の海の幸にぴったり。

香蔵

「にゅうめん」

飲んだ後の〆にはこれ。さっぱりとした上品なダシに揚げた桜海老の風味が相まって極上のスープとなる。お代わりをしたくなるほど、つるつるっとあっというまに平らげてしまう。

幸せの時

一人で飲んでいるこちらにさりげなく気を使ってくれる気さくなおかみさんと、笑顔の素敵な実直そうな主人がいい。二人が穏やかだからだろう。バイトらしき若い子たちも、明るく朗らかで心地よい。地元の漁師だろうか。お酒が入って少々ヒートアップした二人が口論気味に話すのを、頃合を見て店の主がやんわりと制する。決して高圧的ではなく、思わず二人が和やかになるようなものの言い方で。そんな雰囲気が心地よい。酒飲みの声高なおしゃべりを肴に飲むのも、居酒屋で飲む以上、「味」みたいなものだが、やはりのんびり穏やかな雰囲気は悪くない。美味しい肴に美味しい酒。酒飲みがこれ以上なにを望もうか。ぼんやりと明日の事やら、数千キロ彼方の事などに思いをはせながら、肴をつつき、酒を口に含む。本州最南端の夜は幸せの時に包まれる。

隠れた名店を探す旅1 | 隠れた名店を探す旅2 | 隠れた名店を探す旅3

香蔵

Japan web magazine’s recommend

メニュー

香蔵

+-で地図を拡大縮小

Share