舞妓・芸妓

舞妓・芸妓

日本の美

「舞妓」「芸妓」とは

ある意味、日本的な美しさの一つの究極ともいえる「舞妓」「芸妓」の世界。

「舞妓」「芸妓」とは、元々はその名が示す通り、三味線や唄、舞踊などの芸を用いて、宴席に興を添える女性の事だ。とはいえ、ただ、少し弾ける、舞えるというレベルではない。ちょっと齧った程度の慰み物などではなく、れっきとした「芸」なのである。プロフェッショナルなエンターテイナーなのだ。それは同時にどこか極限的でもある。封建時代の名残ともいえようか。時に、明日をも知れぬ命の中で、作り上げられてきた享楽は、緊張感を伴って究極の美しさを生み出した。儚さの中に色彩はあり、憂いの中に美しさがある。花は散るから美しく、物には限りがあるからこそ、可憐なのだ。

太平の世(江戸中期)になり、大輪の花を咲かせ、完成されたといわれる芸事の世界。ちなみに「舞妓」とは「芸妓」になる前の状態をいい、数年間に及ぶ厳しい稽古と下積みを経てようやく「芸妓」となる。髪型や着物から髪飾り、履物にいたるまで、悉く区別があるという。1920年代には8万人以上いたといわれる「芸妓」も今や1000人から2000人の間だと言われる。

舞妓・芸妓
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衣擦れの音、着物の裏地、傘の骨組み・・・その空間では全てのものが繊細で美しい。ただただため息が出る。出来うることならば、頬杖をついて何時間でも見ていたい。そんな気になる。その美しさは表面的なものではない。内面からにじみ出て来るものなのだ。そして、その美しさはきっと一朝一夕に出来上がるものではない。血の滲むような稽古と努力と練習の積み重ね。優雅な空気の内側には人知れぬ悔しさや涙の通過が五月雨のようにあるはずなのだ。それさえも微塵に見せぬ強さとたおやかさと優しさこそ、本物の美の証なのである。

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美しいものを見聞きし、感じるたびに、改めて「美」とはなんなのだろうかと思う。美とは決して共通意識ではない。あるものを美しく思う人が居れば、そう思わない人もいる。人種や性別や宗教や環境によって、美的感覚は著しく変わっていく。それでも時々、他を圧倒するような、何者(物)をもはるかに凌駕するような「美」というものに遭遇する。それはある部分において、本能的感覚に近いものなのかもしれない。感じることさえ出来ない。思考は判断することをやめてしまう。ただその前で圧倒され、息を呑む。繊細が極まって剛毅になり、美しさは極まって涙となる。それは激しさにあらず。柔らかさのみならず。或る瞬間に全ての要素を内包して、昇華する。細胞が希求し、血流が呼吸する。純粋で静かな美しさの前に、自己の存在さえ消えていく。

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